棄民


この国の新自由主義については何度か書いた。新自由主義とは『規制緩和、民営化、社会福祉費の削減』である。少数の勝ち組と大多数の負け組という二極化が進み、その歪みを補完する存在であってほしい地方自治体でも、極端な新自由主義を進める政党が大勝をしてしまう。現在使われる保守という言葉は、実際には真逆の意味になっている。
NHKの”100分de名著”で、先月はナオミ・クラインショック・ドクトリンの紹介をしていた。”ショック・ドクトリン”とは火事場泥棒というような意味で、新自由主義が戦争、災害、パンデミックなどの人が思考停止になる惨事に乗じて、世界中の国で何を行なってきたかを検証したものだ。人が何も考えられない状況では権力は集中し、法律の改定、民営化や再開発などが容易に行え、それによる巨大な利権を得ることが可能だ。全体主義の国では、それはより簡単に進めることができる。民営化前の公共事業の原資は国民の税金なのである。そこで富を得た企業が、その後に破綻したところで誰も責任を取ることがない。新自由主義は民主主義を後退させ続けている。
戦争は国境が生まれてから絶えることがないが、戦いに人を突き動かしてしまうのは仲間意識である。人が持つ過剰な共感力が排他的な感情を生んでしまう。既存の価値観から外れてしまう漠然とした恐怖が、集団への依存と他の集団への攻撃性を肥大させていく。単純化された価値観に基づく言葉ほど、権力に都合の良いものはない。人の感情を操作し、変換させ、利用する方法論はあらゆる集団で共通のものである。小沢昭一は”日本の放浪芸”で本物の、プロの芸能者を探し続けた。彼らには既存の価値観に依りかからずに生きる放浪者としての矜持がある。取材をした中には、ストリッパーの一条さゆりもいた。そこにあるのは棄民といわれることを厭わない、毅然とした覚悟だ。
今月の”100分de名著”では林芙美子を語っていた。10代の私は林芙美子宇野千代瀬戸内晴美も好きだった。そこに描かれた俗の中には、聖性が同居していた。倉橋由美子金井美恵子もそうだった。聖とは疑うべきものだが、聖俗を併せ持つ彼女たちが、世俗でしかない男性原理の家族観や国家観を変えてくれるだろうと思っていたのだ。既存の価値観や集団に帰属意識を求めたところで、権力を持つもの以外は誰もが棄民である。何も持たなくていい。サンダルをつっかけ、竹下通りへでかけるように永田町や投票所に行き、ただおかしいことはおかしいと言えばいいのだ。そこにいるほとんどは、権力を失えば棄民にされる恐怖に怯える、”火事場泥棒”なのである。