山羊


深夜に酒を飲みながら、ゆったりとした気分で観ていたいテレビ番組がある。今一番、酒が美味く感じられるのは”ヤギと大悟”という番組だ。千鳥の大悟がヤギと訪れた民家で、ヤギは庭の草を食べ、大悟は「一服させてもらってええかのう」と隅の縁台で煙草をプカーッとふかしている。今時、こんな光景がテレビで観られるのは、この番組くらいしかない。住人の破顔には、素直な開放感がのぞく。常識と非常識、正義と悪は簡単に入れ替わる。今時の常識という人は、戦時中にも同じことを言っていただろう。共同体では権力に擦り寄ることが圧倒的に有利だ。しかし第二次世界大戦後の世界では、そんな価値観を壊し、誰もが自由な多様性を求めたことがあった。それは個の利潤の追求の中では、簡単に無効化されていった。
『まんだら屋の良太』という漫画がある。 井上ひさし畑中純のこの漫画を読み、漫画が直木賞を受賞してもいいんじゃないかと言った。私も何度か読み返したことがある。登場人物はみな、下衆、下品で、人間の欲望が剥き出しであり、その中で猥雑で下世話な軋轢や問題が起こる。その問題はどの共同体でも、いつも共通して存在するものだ。しかし漫画の登場人物たちは皆がそれぞれ、自分のどうしようもなさや愚かさを認識している。そして、それぞれの違う価値観に怒りながらも、それを受容し、笑い飛ばし、乗り越えていくのである。
五木寛之はコロナ禍で、ずっと続けていた夜型の生活から完全に昼型の生活に変わってしまったと書いていた。それは眠らない街が文化を生んだ時代が終わり、陽の中を生きる昼の時代に変わったからなのだと。それは、そうなのだろう。しかし私には、街にまた妖怪が潜み、魑魅魍魎が跋扈する水木しげるの夜が戻ってきた幸福を感じる。人は寝静まり、星が妖しく瞬き、他の生き物たちは歌う、そんな夜に、見えない山羊にひかれて、ただ歩いていたいのだ。