音頭


“生命の意味論”を書いた多田富雄が、10数年前にウイルス学者と対談をした事がある。その時に、ウイルスに対抗できるとすればキラーT細胞に直接働くDNAデザインワクチンしかないが、その完成は不可能だろうと語っていた。他の国が開発から撤退をする中で、研究を続けたカリコ博士の物語はNHKのドキュメンタリーで何度か紹介された。mRNAワクチンは完成したが、コロナウィルスの変異ははやい。それでももしワクチンがなければ、また現れるだろういくつもの感染症を防ぐ方法は非接触しかないのだ。競馬場にはもう2年以上行っていない。最近は観客数をかなり増やしてはいるが、ネット予約制になり年配の客は消えた。密になり、飲んで騒いだ日は遥かに遠い。社会のカタチは大きく変貌した。
マツコが出演していた”アウト×デラックス”という番組が終了した。境界を生きているアウトな人たちを紹介する、テレビの最後の良心といえる番組だった。一般の人たちを取材する番組は、予算のないテレビ東京が始めたものだ。終電車が終わり酔い潰れている人たちは、それまではただそこにいる、すれ違うだけの人たちだった。しかしそこには右にも左にも落ちず、街の隙間の境界を生きている、なくてはならない人たちがいたのだ。コロナ禍になり、コンプライアンスやハラスメントなどといわれているうちに、街からその姿は消えた。テレビの画面には、困難を乗り越えたというような感動的な良い話ばかりが映されるようになった。人は棘のような小さな痛みは繰り返し思い出しては悩むが、それらを無効化する集団の大きな物語には簡単に呑み込まれていく。宗教画から印象派へ、世界内存在から実存へ、若者の自由への反乱は時折起こるが、そこにある漠然とした不安がまた、新たな宗教や国家への依存を生んでいく。サドが語り続けた事だ。マゾッホの幸福は、そこにはない。
松尾貴史の”離島酒場”という番組を観た。昼飯にしようと、売店で地元食材の大きな握り飯と瓶入り泡盛を買い、誰もいない小さな灯台のある岬の草の上で一杯やっていた。人の集まる場所にはもう興味はない。誰もいない草と風の匂いのする場所が近くにあれば、それでいい。そこには誤った道徳心や正義感はなく、服従を求める権力もない。ただ私と酒と風があるだけだ。しかしどこにいても、どんな時でも笑いは必要だ。その笑いは、くだらなければくだらないほどいい。尖った笑いほど、実は社会に従順だ。やはり境界にいると思っていた人がいなくなってしまった淋しい夜は、音頭でも聴いていよう。私も同じ境界にいる。