無能


昨年発行されたミュージック・マガジンの”ミュージシャンが選ぶ生涯の愛聴盤”という特集を見た。52人のミュージシャンがそれぞれ5枚を選んでいるのだが、その中の二人が”The Velvet Underground & Nico”を選んでいた。アンディ・ウォーホルのバナナのジャケットでも有名な、世界中でよく知られたロック・アルバムの名盤だ。私も当時、レコードを買った。1990年代にルー・リードが来日した時は中野サンプラザへ行った。”マジック・アンド・ロス”を発売した時で、サウンドはかなり変化していて客席は半分程度しか埋まっていなかった。ルー・リードが生涯を共にすることになったローリー・アンダーソンの来日公演はDVDで観ているし、ジョン・ゾーンのCDも買ったことがある。しかし、この3人が組んで発表した音源は聴いたことがない。今回、YouTubeで初めて聴いた。この時はどのくらいの観客がいたのだろう。そこにはヒットという概念はもうない。
押井守がアニメのコアなファンは10万程度で、100万といった数字は流行っているから、話題になっているからと観ている人たちで、作品の持つ力とはあまり関係がないと語っていた。このところ、講談の神田愛山の講談私小説を聴き直している。彼は1万人の熱狂よりも数百人の理解、そんな作品にしか興味が持てなかったと語っている。講談のコアなファンは、どのくらいいるのだろう。その中で愛山の新作を理解する人はどのくらいなのだろう。熱狂とは今月のETVの番組”100分de名著”でも語られていたル・ボンの”群集心理”と同じだ。”断言””反復”拡散”というわかりやすい共感をうみだす手口がある。デマや都市伝説とも相性がいい。今はそれを利用して、どうでもいい事で大金を稼ぐ人が優越性を持ち、弱者を排除している。もともと遊行の民、芸能の人は棄民とされた。管理も搾取もできない自由な存在は、権力には都合が悪かった。しかし彼らこそが文化をつくり、社会変革の土壌をうみ、多様性のある生き方を広めてきたのだ。
つげ義春の漫画は発行部数は多くはないが、多くの編集者に愛され、ずっと残しておきたいと何度も出版されている。『幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく』は、中学生の頃に覚えた若山牧水の短歌だが、頭から離れない。われわれは、”無能の人”でいいのである。