短歌


NHKの朝ドラ『舞いあがれ』を観ていた。主人公と暮らす事になるのが、古本屋をしている歌人という設定だった。私は”博士ちゃん”たちのように、特定のジャンルに夢中になるという事もなく、パラパラと本を開いた程度の知識しか持たない。それでもドラマで描かれる短歌を見ているうちに、かって目にしたことのある短歌を思い出していた。言葉は変化をしていく。もう随分と昔の事になるが、現代短歌では俵万智、現代詩ではねじめ正一の頃にはその変化を感じさせられたものだ。”あのちゃん”や”新しい学校のリーダーズ”の詞など(ファンです)、新しい表現は新しい人たちが語ればいい。私は忘れてしまうかもしれないものを、ただメモしているだけだ。俳句にも西川徹郎『男根担ぎ佛壇峠越えにけり』のような若い表現もあるのだが、短歌の言葉は時代の青春そのものを写している。

寺山修司 『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや』
岸上大作 『意思表示迫り声なきこえを背に掌の中にマッチするのみ』
塚本邦雄聖母像ばかりならべてある美術館の出口に続く火薬庫』
中城ふみ子 『子が忘れゆきピストル夜ふかきテーブルの上に母を狙えり』
春日井健 『童貞のするどき指に乳もげば葡萄のみどり滴るばかり』
岡井隆 『一箇の運命として現れし新樹を避くる手段やありしや』

Eテレの”最後の講義”という番組で大林宣彦山下洋輔の回を観た。大林宣彦は車椅子で、最後の作品となった『海辺の映画館』を語っていたが、初公開された時に観た16ミリの『いつか見たドラキュラ』の頃と何も変わらなかった。山下洋輔のピアノ演奏も、ピンク・フロイドが来日した”箱根アフロディーテ”で聴いた頃と変わることはなかった。そこには変わらない”厭戦”と”自由”への想いがある。チャップリンは”殺人狂時代”で『ひとり殺せば殺人者だが100万人殺せば英雄になる』といった。民主主義も全体主義も同じ地続きの地平に重なり合い、揺らぎながら存在している。人は良くも悪くも、変われないのだと、歴史が言う。だからこそ、過去を知るしかないのだと。