テレビのチャンネルを変えていると、鶴瓶の番組で寅さんファンである劇団ひとりが、兵庫県たつの市を旅していた。たつの市は太地喜和子がマドンナだった”寅次郎夕焼け小焼け”の舞台だ。映画のシーンと変わらない風景を見ている劇団ひとりの、嬉しそうな顔が印象的だった。私が“男はつらいよ”の第一作を観たのは、遊園地である二子玉川園の入り口横にあった二子劇場だった。高度経済成長期の真っ只中で、多摩川にはヘドロで魚が浮き、光化学スモッグ注意報が発令すると散歩に出かけることも躊躇われた頃だ。そんな時代に寅さん映画の画面で観ていたのは、幻影の”日本の原風景”だったが、すっかり魅せられてしまった。寅さんは社会から落ちこぼれた、身近にいれば”困った人”である。映画化される前のテレビ版も観ていたが、最終回では奄美大島でハブを捕まえて一儲けしようとするのだが、逆にハブに噛まれて死んでしまうのだ。しかし渥美清が演じると引き込まれる人物像になる。渥美清は他にも落語家の三遊亭歌笑や版画家の棟方志功など癖のある人物を演じているが、その誰もが魅力的なのだ。映画のロケ地に興味はないが、下町散歩は好きだった。柴又や水元公園には行っているし、舎弟の登(津坂匡章)と入る上野駅前の地下道にあったラーメン屋には何度か行って、映画のように瓶ビールとラーメンを注文したものだ。木の実ナナがマドンナだった”寅次郎わが道をゆく”の舞台である浅草国際劇場は、小学生の頃に”夏の踊り”を観ていて、キング・クリムゾンのコンサートを観たのも浅草国際だった。
山田洋次は人情噺の名手に見えるが、ハナ肇が主演した”馬鹿が戦車でやってくる” や”なつかしい風来坊” のように主人公のキャラクターは強烈だ。新作落語もいくつか書いていて書籍化もされているが、かなりブラックな作風である。志ん朝に感じる江戸の華や粋ではなく、談志が書いた”人間の業の肯定”に近い。”らくだ”という古典落語の演目がある。乱暴者で町中から煙たがられていた”らくだ”が突然死んで、皆がホッとしていると兄貴分だという男が訪ねてきて、弟分に輪をかけた傍若無人の振る舞いをするという噺だ。談志が演じる主人公は狂気すら孕んでいる。山田洋次の根底にあるものも、社会の役に立たない『厄介者』『嫌われ者』と虐げられてきた人たちの、ソフィストたちの出鱈目な言説が罷り通る世の中への痛烈な皮肉だった。男はつらいよテレビ版のラストシーンへの視聴者の苦情で作られたという映画版の1作目、2作目は妹の結婚や恩師の死、生き別れた母との再会というテレビドラマ版の心温まるサイドストーリーのようになっている。それもそれなりのヒットをしたので3作目、4作目が作られるが、シリーズ化を考えていなかった山田洋次ではなく、松竹で“喜劇 女は度胸”といった味のある喜劇を撮っていた森崎東とテレビ版の演出をした小林俊一が、それぞれ監督をしている。その後も人気は高まり、生き続けて日本中を旅する寅さんを山田洋次は書き続けて、国民的映画と言われるようになっていった。今は生成AIに聞けば答えが返ってきて、誰かに声をかけるのも憚られるような、寅さんには生きづらい時代だ。
寅さんは”社会の当たり前”から逃げ続けた人だった。そして今も日本のどこかで、原風景のような町を旅していてほしい。駅の待合室やバス停のベンチで変わらない夢を見ていてほしい。いつまでも『馬鹿だね』と言われていてほしい。逃れられない日常の中で、多くの人が旅を続ける寅さんの姿を思い描いているのである。
笑い
大河ドラマ”豊臣兄弟”を観ている。少年ジャンプのような描き方だが、スーパー歌舞伎や劇団☆新感線のように 表現は変わっていくものだ。松永久秀役で竹中直人が出演していた。デフォルメした役をやると生き生きとしてみえ、その最期のシーンを楽しんだ。竹中直人を初めてみたのは、ザ・テレビ演芸という番組の新人オーデションだったが、かなり”変”だった。ダウンタウンをみたのもこの番組だ。司会の横山やすしが「こんなの芸やない。チンピラの会話や」と言っていたのも懐かしい。その少し前に始まった番組が”お笑いスター誕生!!”である。この番組からはイッセー尾形、でんでん、小柳トムなど、とんねるずもそうだったが『何かよくわからないが、面白い』という人たちが多く現れた。その番組で審査員をしていたのがタモリだ。TV東京の”モンティ・パイソン”の番組で初めて観たタモリは黒の眼帯をしていて、シュールなアングラ感に満ちていた。一般性はないように見えたが、その後の”今夜は最高”や”タモリ倶楽部”がサブカルチャー に与えた影響は大きい。異能の人が次々に現れ、”ヘタウマ”が市民権を得たのもこの頃だ。笑いとは逸脱でもある。
コンプライアンスに厳しい社会でもあり、今はその揺り返しとしてSNSの特性とも思える、わかりやすい定型が求められる。アートや文芸、歌唱などを点数で評価する番組は、様式として楽しんで観ている。オカルトの楽しみ方と同じだ。 しかし共通の価値観を共有させる、国民を定型にはめる法律が閣議決定などされていく状況が、これほど無防備に受け入れられていくのは不思議である。大手メディアが潰され、SNSで情報を得るしかない社会が、今のイスラエルだ。多くの国で、自由な発言、表現が奪われていくが、人はSNSに正義や正解を求めてしまう。先日終了した、あのが主演の深夜ドラマ”悪の華”を観ていた。原作は押見修造の漫画で、この人の作品はビッグオリジナルに掲載された”美術部”を読んでいる。思春期に特有の歪んだ独善性や根拠のない優越性など、誰もが持つその頃の恥ずかしい自己をこれでもかと思い起こさせ、嫌な気分にさせてくれる作家だ。多くの国の為政者の発言、演説を観ていると、それとまったく同じなんとも言えない”嫌な感じ”が押し寄せてくる。”おかしい”と思った時には、既に取り返しのつかない場所にいるのが人なのだ。
竹中直人は”無能の人”や”さよならCOLOR”といった心優しい映画も撮っている。先日終了した、もうひとつのあの主演の深夜ドラマ”わたしの相殺日記”も観ていた。そこで竹中直人はぼんやりとした古本屋の爺さんを演じていたが、それもまたよく似合う。店番をするあのが読んでいるのはヘミングウェイで、その店の客で抑圧された日常にいる主婦が買う何冊かのSF小説には、”星を継ぐもの”と”火星年代記”が映っていた。その後、朝酒ができる居酒屋で偶然会ったふたりだが、そこで主婦は好きなSFを”幼年期の終わり”と言っている。ポツリと『オーバーロード』とも言っていたが、オーバーロードとはプログラミングでは多重定義だが、アーサー・C・クラークでは”神への長い道”だ。”あのちゃんが苦手な人”や”あのちゃんを苦手な人”は多いだろうと、勝手に感じていた。”出川哲郎の充電旅”のあのの回を観た。世の中と折り合いをつけてうまくやっていける人たちと、あのに感じる生きづらさとの思いがけない親和性が新鮮だった。『何かよくわからないが、面白い』、そこには”何だか楽しい”が、確かにあったのだ。
微睡
急に暑くなったり、寒くなったりする日がある、季節の変わり目の頃はいつもクラクラして体が動かない。深夜にテレビのバラエティやドキュメンタリーをぼんやりと観ながら、ちびちびと酒を飲む事だけが幸福な時間だ。その中に、楽しみにしている連続ドラマが何本かある時は嬉しい。昨年は宮藤官九郎の”季節のない街”を観ていた。山本周五郎の原作で、黒澤明が”どですかでん”のタイトルで映画化している。次々と現れる登場人物のキャラクターが皆強烈で、目が離せなかった。三谷幸喜の”もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう”もよかった。1980年代の渋谷が舞台の群像劇で、市川森一の”淋しいのはお前だけじゃない”へのオマージュと思わせるシーンも楽しみに観ていた。私が渋谷によく行っていたのは、ドラマの舞台設定よりも少し前の1960年代の終わりから1970年代の頃だ。ドラマにでてくる、山手協会の地下にあったジャンジャンには何度か行っていて、ドラマの街のモデルである百軒店はストリップ劇場と成人映画館があり、ジャズ喫茶、名曲喫茶、ロック喫茶にはよく通っていた懐かしい場所だ。
都心に行くことがなくなって随分と長い時間が過ぎ、今私が知る東京の街はテレビの画面の中にしかない。タモリが再開発中の渋谷を歩く番組を観た。渋谷スカイウェイが完成するのは2034年だが、生きていたとしても行くことはないだろう。渋谷ヒカリエができる前は東急文化会館があったが、東急名画座や三省堂にはよく行った。 スクランブルスクエアは元は東急デパート東横店だが、東横線を降りると東横のれん街をよく通り抜けていた。井の頭線方面に行くと渋谷古書センター(営業中)があり、東急プラザ渋谷には紀伊国屋書店があった。公園通り方向に歩くと大盛堂本店があり、その先にはパルコブックセンター、たばこと塩の博物館も落ちつける場所だった。明治神宮を通り抜けて長い散歩もした。原宿には浮世絵の太田記念美術館があり、東郷神社では骨董市が月に何度か開かれている。代々木のジャズ喫茶NARU(現LIVE BAR)に寄ったり、新宿まで歩いて風月堂(1973年閉店)やDIG(1983年閉店)でぼんやりとした時間を過ごしていた。1960年代の終わりに雑誌COMで連載していた、永島慎二の漫画”フーテン”を愛読していた影響があったからだろう。ネットで場所と年代が間違っていないか確認をしていると、まだ営業をしていると思っていたジャズ・バーDUGも、この6月にビルの老朽化に伴い閉店という記事があった。
その時代は、澁澤龍彦集成やジョルジュ・バタイユ全集が出版され、『弥勒 五十六億七千万年何ざ束の間のまどろみ』と書いた稲垣足穂が文庫化された頃だ。栗本薫がよく引用していた『狂人か羌族か聖者にしか興味はない。他のは俗衆だ』と書いた、ユイスマンスも読まれていた。自由な表現があり、意味の多様性が理解されていた時代の空気感はアナーキーであり、言葉の全体主義は消え、イデオロギーは意味を失った。澁澤龍彦は「選挙には行ったことがない」と広言している。しかしその後に来るものは、権力はまた新しい対立と戦争を生みだすだけだ。不安を煽り、虚勢を操り、国民を縛る法律をつくり、強権的な為政者を目指す。理不尽と戦っても何も変わらないことは歴史が証明している。いつかそれも滅びると分かってはいても、いつの時代も人はただ流されていく。封建主義や貴族社会が悪いわけで はない。橋本治の言うように、宗教なんかこわくな い。SNSや生成AIの言葉に答えがあるわけもない。変えるためには、”わからない”を知る事、意味の多様性を知る事だ。その材料は過去の膨大な表現の中に残されている。
散歩
『東京落語散歩』という本がある。落語の舞台は下町と江戸四宿までが多い。江戸四宿は品川(東海道)、新宿(甲州街道)、板橋(中山道)、千住(日光街道・奥州街道)で、日本橋から8キロ(2里)程度の距離にある。何の予定もない休日に、そのあたりを散歩していたのは店で一日中、有線放送の落語チャンネルを聴いていた頃で、20数年前から30数年前になる。路地に迷い込み、 趣きのある坂を上り下りし、適当に歩いていれば疲れ果てた頃には、どこかの駅にでる。新宿から四谷方向に歩くのなら、神楽坂をのぼれば江戸川橋、面影橋、雑司ヶ谷だ。後楽園から北へ行けば小石川の植物園、駒込の六義園、巣鴨の地蔵通りがある。神田明神や湯島聖堂に寄って、御茶ノ水から南に行けば神保町、神田にでる。東京駅の八重洲口から歩くのなら新富町、八丁堀、築地から勝鬨橋を渡れば、月島、佃も近い。日本橋から永代橋を渡れば、深川、木場で、江戸資料館や現代美術館もある。数時間も歩けばどこにでも行けた。その頃はどこも寂れて人は少なく、公園で休んでいても、煙草を吸いながら缶チューハイを飲んでいる老人がポツンといるくらいで、どこも落ち着けた。幻想の中にある、柴田流星の『残されたる江戸』や小泉八雲の『日本の面影』を、私も感じたかったのだ。
東京大仏のすぐ近くにある蕎麦屋に入ったことがある。その蕎麦屋には、圓朝の速記本が飾ってあった。怪談噺で有名な圓朝だが、誰もが知っている人情噺の『文七元結』や『芝浜』も彼の作だ。圓朝が集めた幽霊画は、夏になると谷中の全生庵で観ることができる。幕末から明治25年頃まで寄席に出ていた圓朝だが、馬場孤蝶の『明治の東京』を読むと、圓朝の高座は一度しか行けなかったとある。馬場孤蝶の見た明治20年頃の寄席は寂れていて、新しもの好きで半可通の江戸っ子がいなくなり、田舎者の私でも通いやすくなったというような事を皮肉まじりに書いている。「女郎の話や博打の話、長屋の夫婦喧嘩の話もことごとく結構である。安価な教訓談や武士道の講釈などを、銭を出して聞くのは、真平ご免だ」とも書いていた。今のテレビ中継で見る浅草は平日でも人で溢れているが、私が小学生の頃に初めて行った浅草六区は、興行街として賑わった頃の光景はまるでなかった。歴史はただ繰り返すだけだ。広沢虎造の『清水次郎長伝』はカセットで何度も聞いた。今でているCD案内を見ると40演目とあるので、私が聴いていたのはその一部のようだ。講談や浪曲の連続物では「続きはまた明日」となる。それでも聴かせてしまう話芸の凄みがあった。今よく聞こえてくる、タイパやコスパ、リアルという言葉は空疎だ。
夜型の生活は治らない。午後遅くに起きて所用をすませると、すぐに夜になる。いっそ”深夜の徘徊老人”になろうと思うのだが、そのハードルも高い。宮澤賢治は一晩中、よく野や山を歩きまわり自然の音や声を聞いていた。教え子が生きていた頃の映像をみると、朝方に賢治と会うと「種山まで55キロ歩いてきた」と語っていたという。賢治は北上川、種山ケ原、早池峰山、歩いた場所に理想郷を重ねた。都会のイーハトーブは細部にある。闇が訪れれば、その隙間にまた幻想の街が出現する。他の生き物やこの世のものではないものたちと共鳴することができる。橋本治は「豊かになるプロセスとバカになるプロセスは同じである」と書いている。人とは、そういうものだ。そして気がつけば、豊かになるプロセスは失われ、バカになるプロセスだけが残っていく。深夜のテレビに”トリニダードのカーニバル”が映っていた。そこにはただ、「自由でありたい」「奴隷でいたくない」という思いだけが、熱く溢れていた。
沈黙
テレビをつけると銀座にある東京高速道路KK線を歩く番組をやっていた。KK線は民間運用で通行料無料のの2キロ程度の自動車専用道路だが昨年廃止になり、数年後には遊歩道型の公園になるという。KK線の高架下は商店になっており、数寄屋橋の西銀座デパートには中古レコード店のハンターがあった。10代の頃の私は都心散歩に出かけると、古本屋や中古レコード店を覗いたあと、ジャズ喫茶や名曲喫茶で一服するのが常だった。その頃は町の古本屋などは少なく、ほとんどが専門店で初版本や絶版本、レコードも廃盤や入手しにくい輸入盤や海賊版に高値が付けられていて、貧乏な10代には、とても買うことはできない。しかしハンターには千円以下で買える品も多かったので、楽しみにしていた。天井桟敷の”書を捨てよ町へ出よう”のスタジオ盤、武満徹”ミニアチュール”、タージ・マハル旅行団の”JULY15, 1972”、サードイアーバンド”錬金術”といったレコードもハンターで買ったものだ。武満徹のライナーには円形の楽譜が載っており、タージ・マハル旅行団の演奏風景は、今はない清里現代美術館にあったビデオで観た。その後の活動については鎌倉近代美術館の”小杉武久展”にでかけたりもした。そこにあるのは、ポピュリズムや生成AIとは対極にある、『沈黙の中にある音』や『言葉にできない言葉』 のようなものだ。
この2月のEテレの100分de名著ではヤスパースの”哲学入門”が語られていた。ハイルヒトラーや鬼畜米英のような熱狂は、現世の超克を求めるポピュリズムから生まれる。そこに飲み込まれないためには、世の中の当たり前や普通を疑い、他者を理解するための哲学的対話を続け、多様な世界像を見るまなざしを持ち続けることだ。私は戦国時代や維新、明治期の英雄譚や冒険譚は苦手だが、大河ドラマは観ているし、司馬遼太郎もそれなりに読んでいる。司馬遼太郎は「戦国時代の武将や明治の軍人に、先の大戦を起こすようなバカはいなかった」と語っていた。戦後80年が経ったが、世界から言葉は消滅していき、生存闘争を勝ち抜く西洋的価値観とは違う、棲み分けと共生の東洋的な世界観も消えかかっている。生成AIは拡張と進化を続け、ビジネス、エンタメから政治の言葉までなんでもこなしてくれるようになるだろう。そしてそのフォーマットには必ず『経済効果』という単語がくわえられるのだ。十代の私のポケットにはヤスパースの文庫本も入っていたが、その隣には「善人とは気が弱いもので、やむなく善人をやっているのじゃないか。善人とは偽物のことさ」という太宰治の虚無もあった。
店をやっていた町の東は元立川基地の端になり、西には横田基地の端があり、その間に昭和飛行機があって、JR線の北側部分には何もなかった。軍需工場の宿舎があった八清は、かっては映画館などもあって賑わっていたというが、今は商店もない。村上龍の小説やミュージシャンが多く住むことで知られていて、ディープな店も多い隣町への、ただ通り過ぎるためだけの町なのだ。しかし私には、寂れて何もないという事が心地よい場所だった。昭和飛行機のあった場所(現ゴルフ場)に巨大なデータセンターと物流センターができるという。そこでは町の全世帯が使用する6倍もの電力と膨大な水資源が必要だ。物流による交通量は増大し、町の形も変わっていくだろう。それは生成AIで卒業論文やエントリーシートを書き、amazonで買い物をする世代にはなくてはならないものだ。しかし人の暮らしには、さまざまな世界像と幸福論がある。他者の幸福論を否定する幸福論などあり得ない。あるというのなら、その幸福論が間違っていただけだ。”消費資本主義の死”が語られてから30年が経っているが、今はその断末魔のような光景が世界に広がっている。
老人
『年老いた人よ、俺はあんたと似てないかい
教えてくれないか
俺は、安息の地を見つける事ができるだろうか』
ニール・ヤングの”オールド・マン”は1972年発売のアルバム”ハーヴェスト”に収録されている。彼が27歳の頃で、そして今年80歳になった。1985年からは困難にある農業従事者の支援のためのコンサート、”ファーム・エイド”を提唱者のひとりとして開催している。ニール・ヤングが広大な牧場を購入したのは1970年のことで、”オールド・マン”はその頃に書かれた曲なのだろう。同じアルバムに収録されているヒット曲、”孤独の旅路”では『無垢の魂を探し求めて、年老いていく』と歌っている。年末のテレビから第九の”歓喜の歌”が流れてきたが、地上に楽園はない。
郵便局の窓口に行くと、私と同じくらいの年齢の人が、窓口で何かを尋ねていた。どうやら、その日は天気が良く、良い気分になり、いつもより足を延ばして線路を越えて散歩をしているうちに、方向感覚を失ってしまったようだ。住所も思い出せないらしい。窓口の人が「近くに学校はありますか」などと聞いている。その人がポツリと「昔、ぶどう園というアパートがあった、その奥なんですけどね」と呟いた。私は「ぶどう園なら・・・」と言いかけて、やめた。ぶどう園の入り口の映像は浮かぶのだが、正確な場所がまったく思い出せないのだ。昔、私の住んでいた安アパートの近くにあった居酒屋Tの店主で、ライブ活動もしていたNさんが若い頃に住んでいたのがぶどう園だった。都心と違ってこのあたりは、大規模な再開発などはないのだが、古いアパートや家は取り壊され、街並みは変わっていった。居酒屋も、私の住んでいた安アパートも、その隣にあった銭湯も今はない。記憶はだんだんと曖昧になっていく。
宮藤官九郎が田口トモロヲ監督の映画で、来春公開される『ストリート・キングダム~自分の音を鳴らせ。』について書いていた。 1970年代終わり頃の東京ロッカーズを描いた作品だ。”東京ロッカーズ”は音楽やサブカルチャーの雑誌で知った。宮藤官九郎は、パンクを追いかけるきっかけは”ザ・スターリン”とも書いていた。居酒屋のNさんは、ライブハウスでザ・スターリンと同じ日のステージで歌っていて、駅前の古本屋で番頭をしていたTくんは遠藤ミチロウのバックでドラムを叩いていた。私はケータイを使っていない。固定電話には電話番号は残ってないし、メールアドレスもパソコンがダメになった時に、そのままにしてしまっている。5年、10年、20年と音沙汰のない人ばかりになってしまった。語る言葉があるわけではないが、皆どこかで元気でいてほしい。また大晦日がきて、近年は紅白を観ながらちびちびと酒を呑んでいる。私が勝手に選ぶ今年の大トリは、田口トモロヲのバンド”ばちかぶり”にしよう。
旅
大河ドラマ『べらぼう』を観ている。蔦屋重三郎、平賀源内、大田南畝、山東京伝、恋川春町、十返舎一九、喜多川歌麿、曲亭馬琴らの破天荒な生き方は痛快である。そこには対抗文化としての意地や矜持があり、くだらないことを真面目にやり、面白がる粋があった。もちろん現在のコンプライアンスから見れば暴力やハラスメントの時代でもあったが、物事は常に多面的だ。明治期に近代化を進める中で近世は否定された。今いわれている日本の伝統や、家父長制に良妻賢母といった家族観はその頃に作られたものだ。この国にはモダニズムもアンチモダニズムも、そしてポストモダンもなかった。アメリカの原風景は戦後に放映されたホームドラマでみた、芝生のある広い家に大きな車、 可憐な姉とやんちゃな弟のいる典型的中流家庭の家族観である。中世は暗黒のイメージとして捉えられることも多いが、ホイジンガの”中世の秋”や網野善彦の中世的世界に関する著作を読むと、別の景色も見えてくる。いつの時代にもその社会の在り方にとらわれず、自由を求める人たちがいた。藤代孝一は、謝肉祭劇は『文明社会で道徳規範に束縛された生活の代償行為』と書いている。カーニバルの謝肉祭劇や祭りの神楽にみる中世の笑い、そこにある生命力は性愛や糞尿譚のような禁忌を破ることで描かれた。江戸のワ印も同じだ。
マックス・ヴェーバーは『政治とは倫理ではなく、権力(暴力)である』と書いている。政治の暴走を監視するために戦後民主主義、民主憲法はつくられた。権力は敵をつくることで強固になっていく。しかし戦前の大本営に抗えなかったメディアと同じように、SNSのポピュリズムは危うい。誰もがいじめられる側になりたくはなく、同じような意見や感想が溢れ、別の価値観を攻撃するようになり、やがて自縄自縛になっていく。秘境人の番組を観ていると、人里離れた場所でひとりで暮らしていても、孤独を感じている人はほとんどいない。そこでは現世の欲望は何の意味も持たず、幻想としての欲望だけがある。自然が友になり、充実した日常が繰り返されていく。ショーペンハウアーの”孤独と人生”やルソーの”孤独な散歩者の夢想”があるのだ。人が怖れるのは孤独ではなく、集団の中での孤立である。全体主義は個人を犠牲にするが、権力を賛美する集団を救うことなどなかった。
つげ義春の漫画、”海辺の叙景””ほんやら洞のべんさん”がモチーフの映画、”旅と日々”が公開されている。つげ義春の作品は雑誌ガロに掲載された時に読んでいるが、その後もさまざまな判型で作品集が出版されていて何度か読み返した。シュールで淫靡な妖しさがある、読者の想像力を刺激する”ねじ式”のような作品には圧倒もされたが、10代の私は彼の心象風景である寂寥とした透明感により惹かれていた。子供の成長には厳格な父と放蕩な叔父のような異なる価値観を持つ、ふたつの在り方が必要だが、その役割を担うのがサブカルチャーだ。サブカルチャーが多様な表現を持つことが健全な社会である。旅とは移動ではない。つげ義春には日常もまた旅である。私が丘陵にある寂れた公園のベンチで、一杯飲りながら見ているものは、”海辺の叙景”や”長八の宿”の大きく描かれたラストシーンの風景なのだ。橋爪大三郎は構造主義を『自文化を相対化し、異文化を理解する方法論』と書いている。旅とは、それを知ることである。