昆虫愛を語る養老孟司は本当に楽しそうだ。それは不思議で美しく、手放しで賞賛できるものなのだろう。人を語れば、 苦々しい思いややりきれない気分を感じてしまうことにもなる。なにしろ人は都合よくデータを改竄し、歴史を書き換えてしまう生き物なのだ。大量の生物が日々絶滅しているが、人は無菌、無毒、無臭といった快適な生活空間を求めるあまり、かってはなんでもなかった不快さえも排除していく。不快にも意味はあるのだが、無思考で安直な快適ばかりが伝染していく。
しかし私は虫が苦手である。子供の頃は昆虫採集にいき、夏休みの自由研究では標本もつくった。けれど家の引っ越しですぐに都会で暮らすようになり、密閉度の高い住宅に住むようになると自然とはまったく無縁になってしまった。もちろん、ファーブルの昆虫記などは読んでいるが、それ以上に知識が広がることもなかった。ただ害虫の情報だけを繰り返し眼にする事になった。人は理解できないものには畏怖や嫌悪を感じてしまう。要するに無知だったのである。
以前に書いたことがあるが、コロナ禍の誰ひとりいない公園で日本酒を飲んでいたことがある。その時、地中から現れた蝉の幼虫が長時間かけて木に登っていく姿をずっと見続けて、飽きることがなかった。人は子ども時代の、何もかもが新鮮で面白いと感じる頃を過ぎれば、無意識に強要されている退屈な価値観に押しつぶされ、誰もが同じ顔になってしまう。連続射殺魔の永山則夫は”無知の涙”と書いた。人はいつのまにか、無知であることに鈍感になってしまうのだ。
“クレージージャーニー”という番組で、この国の古着が大量に輸出され、結局使われることのない衣服が砂漠に廃棄されて巨大な山になり、それがあちこちで燃えている光景が映されていた。この国は古い武器を大量に輸入している。それは古着のように、いつかどこかで消費するしかない。文明とは大量のゴミを生み出し続け、やがて自滅へと向かっていく。高度な文明は過去に何度も生まれたが、例外なく滅んでいった。そこで残ったものは多様性を持つ生き方だけだった。生産性のまったくない牧野富太郎南方熊楠は必要なのである。
長い夏がようやく終わろうとしていて、日が暮れれば涼しい風を感じることができる。日中に歩くことは困難になってきている、毎年そんなことを言っていて、人はもうエアコンがなければ生きていけないのかもしれないと思う。しかしこの夏の暑さでも扇風機を使った日でさえ10日くらいしかないのだ。そんな事よりもなぜか、ようやく季節が変わる嬉しい時期になると不調になり、歯が痛んだりするのだ。一週間も酒を飲めなければ、心は折れる。もういいと日本酒を飲み、深夜のテレビをつけると尾崎リノという人が歌っていて、なんだか元気がでた。

短歌


NHKの朝ドラ『舞いあがれ』を観ていた。主人公と暮らす事になるのが、古本屋をしている歌人という設定だった。私は”博士ちゃん”たちのように、特定のジャンルに夢中になるという事もなく、パラパラと本を開いた程度の知識しか持たない。それでもドラマで描かれる短歌を見ているうちに、かって目にしたことのある短歌を思い出していた。言葉は変化をしていく。もう随分と昔の事になるが、現代短歌では俵万智、現代詩ではねじめ正一の頃にはその変化を感じさせられたものだ。”あのちゃん”や”新しい学校のリーダーズ”の詞など(ファンです)、新しい表現は新しい人たちが語ればいい。私は忘れてしまうかもしれないものを、ただメモしているだけだ。俳句にも西川徹郎『男根担ぎ佛壇峠越えにけり』のような若い表現もあるのだが、短歌の言葉は時代の青春そのものを写している。

寺山修司 『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや』
岸上大作 『意思表示迫り声なきこえを背に掌の中にマッチするのみ』
塚本邦雄聖母像ばかりならべてある美術館の出口に続く火薬庫』
中城ふみ子 『子が忘れゆきピストル夜ふかきテーブルの上に母を狙えり』
春日井健 『童貞のするどき指に乳もげば葡萄のみどり滴るばかり』
岡井隆 『一箇の運命として現れし新樹を避くる手段やありしや』

Eテレの”最後の講義”という番組で大林宣彦山下洋輔の回を観た。大林宣彦は車椅子で、最後の作品となった『海辺の映画館』を語っていたが、初公開された時に観た16ミリの『いつか見たドラキュラ』の頃と何も変わらなかった。山下洋輔のピアノ演奏も、ピンク・フロイドが来日した”箱根アフロディーテ”で聴いた頃と変わることはなかった。そこには変わらない”厭戦”と”自由”への想いがある。チャップリンは”殺人狂時代”で『ひとり殺せば殺人者だが100万人殺せば英雄になる』といった。民主主義も全体主義も同じ地続きの地平に重なり合い、揺らぎながら存在している。人は良くも悪くも、変われないのだと、歴史が言う。だからこそ、過去を知るしかないのだと。

棄民


この国の新自由主義については何度か書いた。新自由主義とは『規制緩和、民営化、社会福祉費の削減』である。少数の勝ち組と大多数の負け組という二極化が進み、その歪みを補完する存在であってほしい地方自治体でも、極端な新自由主義を進める政党が大勝をしてしまう。現在使われる保守という言葉は、実際には真逆の意味になっている。
NHKの”100分de名著”で、先月はナオミ・クラインショック・ドクトリンの紹介をしていた。”ショック・ドクトリン”とは火事場泥棒というような意味で、新自由主義が戦争、災害、パンデミックなどの人が思考停止になる惨事に乗じて、世界中の国で何を行なってきたかを検証したものだ。人が何も考えられない状況では権力は集中し、法律の改定、民営化や再開発などが容易に行え、それによる巨大な利権を得ることが可能だ。全体主義の国では、それはより簡単に進めることができる。民営化前の公共事業の原資は国民の税金なのである。そこで富を得た企業が、その後に破綻したところで誰も責任を取ることがない。新自由主義は民主主義を後退させ続けている。
戦争は国境が生まれてから絶えることがないが、戦いに人を突き動かしてしまうのは仲間意識である。人が持つ過剰な共感力が排他的な感情を生んでしまう。既存の価値観から外れてしまう漠然とした恐怖が、集団への依存と他の集団への攻撃性を肥大させていく。単純化された価値観に基づく言葉ほど、権力に都合の良いものはない。人の感情を操作し、変換させ、利用する方法論はあらゆる集団で共通のものである。小沢昭一は”日本の放浪芸”で本物の、プロの芸能者を探し続けた。彼らには既存の価値観に依りかからずに生きる放浪者としての矜持がある。取材をした中には、ストリッパーの一条さゆりもいた。そこにあるのは棄民といわれることを厭わない、毅然とした覚悟だ。
今月の”100分de名著”では林芙美子を語っていた。10代の私は林芙美子宇野千代瀬戸内晴美も好きだった。そこに描かれた俗の中には、聖性が同居していた。倉橋由美子金井美恵子もそうだった。聖とは疑うべきものだが、聖俗を併せ持つ彼女たちが、世俗でしかない男性原理の家族観や国家観を変えてくれるだろうと思っていたのだ。既存の価値観や集団に帰属意識を求めたところで、権力を持つもの以外は誰もが棄民である。何も持たなくていい。サンダルをつっかけ、竹下通りへでかけるように永田町や投票所に行き、ただおかしいことはおかしいと言えばいいのだ。そこにいるほとんどは、権力を失えば棄民にされる恐怖に怯える、”火事場泥棒”なのである。


“カバーズ”というTV番組で、斉藤和義が”俺たちの旅”を歌っていた。子供の頃は意味もわからず歌っていたが、歳を重ねた今聴くと考えさせられると語っていた。”俺たちの旅”は1970年代にヒットした青春ドラマで、主演の中村雅俊が歌っていた主題歌は小椋佳が作詞作曲をしている.。こんな詞だ。『夢の坂道は木の葉模様の石畳 まばゆく白い長い壁 足跡も影も残さないで たどりつけない山の中へ続いているものなのです / 夢の夕陽はコバルト色の空と海 交わってただ遠い果て 輝いていたという記憶だけで ほんの小さな一番星に追われて消えるものなのです / 夢の語らいは小麦色した帰り道 畑の中の戻り道 ウォーターメロンの花の中に数えきれない長い年月 うたたねをするものなのです』
改めて読んでみると、夢とは何の痕跡も残さずに消えさる永遠にたどり着けないものであり、輝いていると見えたものは一瞬のまぼろしで何の実態もなく、日々の暮らしに追われているうちに人は瞬く間に年老いてゆく、といったような内容だった。それは東大を卒業し、銀行に勤めながらヒット曲も書いていた、そんな頃にも通底にあった小椋佳の喪失と諦念なのだろう。
“酔生夢死”と何度か書いているが、本来の意味は『光陰矢の如し』や『少年老い易く学成り難し / いまだ覚めず池塘春草の夢』と似たようなものだ。酒を呑むということははしゃぐ事である。はしゃげない酒は哀しい。そのためには、はしゃぐ事を許容してくれる居心地のよい店があり、同じようにはしゃいでくれる顔なじみの人たちが必要だが、そんな場所や人もやがて消えていく。しかし猫といても、ひとりであってもはしゃぐことはできる。趣味嗜好とはそういうものだ。酔生夢死、はしゃぎながら生き、うたたねをするように死にたい。

山羊


深夜に酒を飲みながら、ゆったりとした気分で観ていたいテレビ番組がある。今一番、酒が美味く感じられるのは”ヤギと大悟”という番組だ。千鳥の大悟がヤギと訪れた民家で、ヤギは庭の草を食べ、大悟は「一服させてもらってええかのう」と隅の縁台で煙草をプカーッとふかしている。今時、こんな光景がテレビで観られるのは、この番組くらいしかない。住人の破顔には、素直な開放感がのぞく。常識と非常識、正義と悪は簡単に入れ替わる。今時の常識という人は、戦時中にも同じことを言っていただろう。共同体では権力に擦り寄ることが圧倒的に有利だ。しかし第二次世界大戦後の世界では、そんな価値観を壊し、誰もが自由な多様性を求めたことがあった。それは個の利潤の追求の中では、簡単に無効化されていった。
『まんだら屋の良太』という漫画がある。 井上ひさし畑中純のこの漫画を読み、漫画が直木賞を受賞してもいいんじゃないかと言った。私も何度か読み返したことがある。登場人物はみな、下衆、下品で、人間の欲望が剥き出しであり、その中で猥雑で下世話な軋轢や問題が起こる。その問題はどの共同体でも、いつも共通して存在するものだ。しかし漫画の登場人物たちは皆がそれぞれ、自分のどうしようもなさや愚かさを認識している。そして、それぞれの違う価値観に怒りながらも、それを受容し、笑い飛ばし、乗り越えていくのである。
五木寛之はコロナ禍で、ずっと続けていた夜型の生活から完全に昼型の生活に変わってしまったと書いていた。それは眠らない街が文化を生んだ時代が終わり、陽の中を生きる昼の時代に変わったからなのだと。それは、そうなのだろう。しかし私には、街にまた妖怪が潜み、魑魅魍魎が跋扈する水木しげるの夜が戻ってきた幸福を感じる。人は寝静まり、星が妖しく瞬き、他の生き物たちは歌う、そんな夜に、見えない山羊にひかれて、ただ歩いていたいのだ。

青春


ステレオが家にきた子供の頃に買ったLPの中に、フルトヴェングラーベルリンフィルの”運命”もあった。ヒトラーナチスへの熱狂の中で演奏したフルトヴェングラー演奏家は何を思っていたのだろうと、細部を聴きたかった。芸術がただの緻密なリアリズムで語られる悪夢は今もある。著名な写真コンテストのクリエィティブ部門で、『偽の記憶 電気技師』というAIが作成した作品が最優秀賞を受賞した(出品者は問題提起をするために出品をしたとして、その後出品を取り下げた)。タイトルで検索をすれば、作品を観ることができるが、よくできている。AIが作成した美しい女性の画像と現実との区別はつかないので、AV女優という職業はもうなくなるといった事も言われたりする。そうなった社会の美の定義、個人の美意識はどう変化していくのだろう。そこに正解などないが、刷り込みは常にある。そしてどこの国でも道徳教育にあるのは、道徳ではなく偏向なのである。
テレビをつけると、歌舞伎町の公園に立っている女性たちが映っていた。先日はNHKで『戦後沖縄のゴザの夜』のドキュメンタリーを放送していた。いつの時代もどこの世界でも、苦境にある人ができることは限られている。持つ人は金銭で優位性を得ようとするが、すぐその後には相手への依存という逆転現象が起きる。そうでない人がいるから、そうである人も存在する事ができるのだ。今月の”100分de名著”では、ヘーゲルの”精神現象学”を紹介している。先日亡くなった坂本龍一は若い頃からずっと、ヘーゲルの”アウフヘーベン”を語っていた。それぞれの環境にある、それぞれの思考を知ることでしか社会は変わらない。
青春とは反逆と逸脱と失敗であるが、今の社会は失敗を許さない。それは無意識の自傷行為のようにみえる。私は江戸が好きだ。群舞の遊女踊りに茶屋の看板娘、異装のかぶき者、混浴の湯屋や芝居小屋、流行の浮世絵に戯作、みな粋だった。与太郎与太郎らしく生きられ、八っつあん熊さんが宵越しの金を持たずとも気楽にいられたのも、寛容で馬鹿馬鹿しさを愉しむ事ができた、ご隠居や長屋の大家がいたからでもある。植村直己は”遊びたいときに遊ぶ”といい、岡本太郎は”ここちよさ”と語った。酔生夢死でありたい。そうあるためには、そうあるための理性と道徳は必要だ。一杯やりながら、今年放送されたNHKの”映像の世紀”を観直していた。進化したAIは曖昧で矛盾だらけの存在である人間を、いつかどのように語るのだろう。ほろ酔いになった丑三つ時、ゴダールやカラックスの青春映画を思い出していた。

幸福


都心散歩をしていた頃がある。どこかに行き、何かをしたいというようなことではなく、江戸の坂といった本を読み、ただ歩き、路地裏の割れた植木鉢の木が大木に育っている事に、ただ感心したりしていたのだった。この3月でテレビの”タモリ倶楽部”が終了した。今週末もまた愉しく、ゆるい時間を過ごせると思わせてくれる番組だった。マンホール、ブロック塀、配管、電線・・・世の中のどんなものにでも面白がり、はまってしまう人たちがいる事を知ることで、心強くなる事ができた。
個人の趣味嗜好とハラスメントが混同して語られている。ハラスメントとは権力や暴力による服従である。それは何者かになりたい欲望と何者かである錯覚に溺れる社会に存在するものだ。人を不快にさせることもある趣味嗜好、表現はメディアからどんどんと排除させられている。ただ見たいものだけを見、むき出しの正義で個人の失敗は容赦しないが、権力の暴走にはまったく無抵抗な社会だ。すべての事象には二面性があり、その間にも無数のグラデーションがある。マルキ・ド・サドジャン・ジュネもアントナン・アルトーも必要なのである。近いうちにAIがヒット商品の企画開発やコンサルタントなどもするようになるだろう。売れる物語や音楽や絵画も造ることができるだろう。しかしそこからは生きている間に一枚の絵も売れなかったゴッホムンクランボーロートレアモンたちが生まれるとは思えない。AIはわかりやすい共感は簡単に再現、創作することができるだろうが、狂気や絶望の果てに生まれる表現を理解することはできないだろう。人とはバグなのである。
薄暗い公園のベンチでひとり酒を飲んでいる人がいる。その人はただその事だけで無上の幸福を感じているのかもしれないし、そんな境遇を救いのない不幸と感じているのかもしれない。その人を見る眼もまた同じように、見ている私の幸福と不幸を写しているだけなのだ。人を規定する、歪んだ基準からは逃げるしかない。逃げ続けていればきっといつか、逃げ切れる日もくるだろう。そうあり続ける事が、幸福なのだ。