幸福


都心散歩をしていた頃がある。どこかに行き、何かをしたいというようなことではなく、江戸の坂といった本を読み、ただ歩き、路地裏の割れた植木鉢の木が大木に育っている事に、ただ感心したりしていたのだった。この3月でテレビの”タモリ倶楽部”が終了した。今週末もまた愉しく、ゆるい時間を過ごせると思わせてくれる番組だった。マンホール、ブロック塀、配管、電線・・・世の中のどんなものにでも面白がり、はまってしまう人たちがいる事を知ることで、心強くなる事ができた。
個人の趣味嗜好とハラスメントが混同して語られている。ハラスメントとは権力や暴力による服従である。それは何者かになりたい欲望と何者かである錯覚に溺れる社会に存在するものだ。人を不快にさせることもある趣味嗜好、表現はメディアからどんどんと排除させられている。ただ見たいものだけを見、むき出しの正義で個人の失敗は容赦しないが、権力の暴走にはまったく無抵抗な社会だ。すべての事象には二面性があり、その間にも無数のグラデーションがある。マルキ・ド・サドジャン・ジュネもアントナン・アルトーも必要なのである。近いうちにAIがヒット商品の企画開発やコンサルタントなどもするようになるだろう。売れる物語や音楽や絵画も造ることができるだろう。しかしそこからは生きている間に一枚の絵も売れなかったゴッホムンクランボーロートレアモンたちが生まれるとは思えない。AIはわかりやすい共感は簡単に再現、創作することができるだろうが、狂気や絶望の果てに生まれる表現を理解することはできないだろう。人とはバグなのである。
薄暗い公園のベンチでひとり酒を飲んでいる人がいる。その人はただその事だけで無上の幸福を感じているのかもしれないし、そんな境遇を救いのない不幸と感じているのかもしれない。その人を見る眼もまた同じように、見ている私の幸福と不幸を写しているだけなのだ。人を規定する、歪んだ基準からは逃げるしかない。逃げ続けていればきっといつか、逃げ切れる日もくるだろう。そうあり続ける事が、幸福なのだ。