青春


ステレオが家にきた子供の頃に買ったLPの中に、フルトヴェングラーベルリンフィルの”運命”もあった。ヒトラーナチスへの熱狂の中で演奏したフルトヴェングラー演奏家は何を思っていたのだろうと、細部を聴きたかった。芸術がただの緻密なリアリズムで語られる悪夢は今もある。著名な写真コンテストのクリエィティブ部門で、『偽の記憶 電気技師』というAIが作成した作品が最優秀賞を受賞した(出品者は問題提起をするために出品をしたとして、その後出品を取り下げた)。タイトルで検索をすれば、作品を観ることができるが、よくできている。AIが作成した美しい女性の画像と現実との区別はつかないので、AV女優という職業はもうなくなるといった事も言われたりする。そうなった社会の美の定義、個人の美意識はどう変化していくのだろう。そこに正解などないが、刷り込みは常にある。そしてどこの国でも道徳教育にあるのは、道徳ではなく偏向なのである。
テレビをつけると、歌舞伎町の公園に立っている女性たちが映っていた。先日はNHKで『戦後沖縄のゴザの夜』のドキュメンタリーを放送していた。いつの時代もどこの世界でも、苦境にある人ができることは限られている。持つ人は金銭で優位性を得ようとするが、すぐその後には相手への依存という逆転現象が起きる。そうでない人がいるから、そうである人も存在する事ができるのだ。今月の”100分de名著”では、ヘーゲルの”精神現象学”を紹介している。先日亡くなった坂本龍一は若い頃からずっと、ヘーゲルの”アウフヘーベン”を語っていた。それぞれの環境にある、それぞれの思考を知ることでしか社会は変わらない。
青春とは反逆と逸脱と失敗であるが、今の社会は失敗を許さない。それは無意識の自傷行為のようにみえる。私は江戸が好きだ。群舞の遊女踊りに茶屋の看板娘、異装のかぶき者、混浴の湯屋や芝居小屋、流行の浮世絵に戯作、みな粋だった。与太郎与太郎らしく生きられ、八っつあん熊さんが宵越しの金を持たずとも気楽にいられたのも、寛容で馬鹿馬鹿しさを愉しむ事ができた、ご隠居や長屋の大家がいたからでもある。植村直己は”遊びたいときに遊ぶ”といい、岡本太郎は”ここちよさ”と語った。酔生夢死でありたい。そうあるためには、そうあるための理性と道徳は必要だ。一杯やりながら、今年放送されたNHKの”映像の世紀”を観直していた。進化したAIは曖昧で矛盾だらけの存在である人間を、いつかどのように語るのだろう。ほろ酔いになった丑三つ時、ゴダールやカラックスの青春映画を思い出していた。