猫のいた日々


休日散歩から帰った深夜、猫は炬燵のいつも私が座る場所にいた。膝の上にのってきたので、それからまた一杯やっているうちに、そのままふたりとも眠ってしまった。昼頃は布団で寝ていたのだが、猫もノロノロとまた横にきて一緒に二度寝をした。しかしその夕方には、もう動けなくなっていた。前日に起きて風呂に入っていた時は、いつものように変わらず曇りガラスの向こうで、座って待っていたのだ。今年に入ってあまり食べなくなっていたので、今まではカリカリ以外は口にしなかったのだが、いろいろな食べ物を買って並べておいたがダメだった。最後の3週間は私が炬燵にいる時は、ずっと膝の上にいた。ついこの間まで、酒を飲んでいるとそのすぐ横に、咥えてきたネズミの小物をポトリと落とすので、「爺いどうしで、何やってんだ」とふざけ合っていたのに。翌日に、前の猫たちが眠る寺に連れて行った。
あいつがやってきて丸16年が過ぎていたが、猫の時間ははやい。人間の年齢でいえば80歳を超えているが、それでも毎日プロレスごっこをしていた頃と何も変わらなかった。老成もせず、利口にはならず、はしゃぎあい、じゃれあい、一緒に昼寝をしているうちに、どちらも同じように年をとった。ずっと楽しかったな。もう猫と暮らすことはできないが、猫と一緒に暮らす前には、勝手に押しかけてきた野良猫たちとのいろいろな出会いと別れもあった。巨大な長老猫が死んだ後は、近くにある寂れた公園にたまに行くと、彼女とそっくりな長毛の白猫が、いつも同じ場所にいてくれた。早い春に散歩にでかけ、誰もいないどこかでゆっくりと日本酒を飲んでいたい。その時はきっと、あいつによく似た野良猫が現れて、一杯つき合ってくれるような気がしている。

早春


昨年末に放送されていた連続ドラマ、”エルピス”を観ていた。権力者が連続殺人の犯人を隠蔽し、冤罪事件を生むという話だった。警察は捜査を放棄し、メディアは冤罪者の誤った人物像を書き立てていく。ちょうどその頃、NHKでは”松本清張帝銀事件”をやっていた。これは冤罪事件ではないかと取材を続けた松本清張が、”小説帝銀事件”として出版したもので、内容は”エルピス”と同じ構図だ。番組では新しくGHQの資料を公開していた。帝銀事件で使われた毒物は青酸カリではなく731部隊でつくられたもので、持ち出した可能性がある人物がいた。GHQ731部隊が行なった人体実験の研究資料をすべて渡す事と引き換えに、部隊員の罪を問わなかった。その事で捜査は731部隊から離れ、メディアは冤罪の可能性がある人物の人間性まで暴いていくことになる。メディアがすべきことは権力の監視と弱者の救済だ。731部隊に関しては、1980年頃に出版された森村誠一の”悪魔の飽食”も当時話題になっている。
戦後、東京裁判A級戦犯になることを免れた政治家による米国従属が始まり、それが今も続いている。米国は日本を反共の壁にしたかった。”憲法9条”は押し付けられたものではなく、米国の戦争に巻き込まれないための最も賢明な戦略だった。それが大きく変わり始めた。日米貿易摩擦の時には必要のない半導体を買わされて産業は衰退し、国内で余剰もある米を買わされて農業も衰退した。今度は最新鋭のミサイルに比べて5分の1程度の巡航速度でしかない時代遅れのトマホークを大量に買わされ、米軍の肩代わりをする最前線基地になるのだろうか。 独裁政権の大虐殺の映像は何度も見ているが、独裁政権が非暴力、不服従で倒れていく光景もまた何度も見ている。権力は人の欲望を利用し、敵をつくることで肥大する。市民に敵対的な感情を持たせるためのプロパガンダは、どこの国でも巧妙に続けられている。それぞれの国で、それぞれが”不服従”であり続けるしかない。
テレビをつけると、異形の才能であるマツコデラックスと桃井かおりが語っていた。親の価値観(メイン・カルチャー)とはまったく違う、対抗文化(カウンター・カルチャー)を象徴するようなふたりだ。しかし親が死に、その価値観から解放されて自由になった時に、普通のなんでもない日常に思いを巡らせるようになったと語っていた。寒い日が続いているが、もうすぐ春がきて野の花も咲く。その時にまだ、私に変わらない日常があるとすれば、暖かい日差しの中でまた、美味い酒を飲むことができる幸福があるだろう。

年末の夜に’22  


『夜の夢こそまこと 人間椅子小説集』という本が、先日出版された。この”人間椅子”は江戸川乱歩の小説ではなく、 乱歩に影響を受けたバンドの人間椅子の事で、その楽曲を題材にして書かれたオムニバスの小説集である。1989~90年にバンドブームを起こしたイカ天(いかすバンド天国)というテレビ番組があった。そこから、今でもメジャーで活躍しているBEGINなど多くのバンドが生まれたが、人間椅子とたまからは強烈なインパクトを受けたものだ。上の映像は人間椅子イカ天の時の映像だが、現在は更に進化していて圧倒される(現在の映像は埋め込みができないので右のアドレスからみてもらいたい https://youtu.be/CbI79e5iZKs)。たまのメンバーも大編成の音楽集団”パスカルズ”への参加や、さまざまな形で活躍をしている。そんなバンドに出会いたく、今でも”MUSIC GOLD RUSH”のようなオーディション番組があれば観てしまう。そこでは、森田童子戸川純の末裔にはたまに出会えるが、奇妙なバンドはいない。今はきっと、どこかの闇に潜んでいるのだろう。
語っている本人もよくわかっていないだろうビジネス用語をいろいろな媒体で聞く。 それ自体が”自己啓発ビジネス”なのだろう。企業のイノベーションとは要するに、できるだけ恒久的な課金のシステムをつくることや、同じ原価の物をブランド化し何倍もの付加価値をつけるということにすぎない。合法的な搾取や詐欺の手口を考えろという事だ。国家もまた同じである。 人の住む場所を集約化し、社会インフラの費用を削る。根底にあるものはすべて効率だ。今では政治の言葉は人を思考停止にさせる空疎な呪文でしかない。議論の前提が出鱈目な”論破”という言葉などが罷り通ってしまう。女性の政治家が活躍してほしいと思うが、この国では醜悪な言葉ばかりが目立つ。ドイツのメルケル首相やアメリカのギンズバーグ判事は失敗もしたが、自由と平等の理念はブレなかった。メルケルの退任式で、軍楽隊が”ニナ・ハーゲン”の曲を演奏したのも印象的だった。今では威勢のいい言説ばかりが飛び交っているが、世界的な異常気象や人口増加に対する食糧安全保障に関しては、この国は驚くほど無防備だ。国内の農地は荒廃し、海外での買い付けは他国に負け続けている。そして人はまた単なる戦力や労働力にされていく。
有馬記念の馬券を買った後、リサイクルショップを冷やかしていると声をかけられた。振り返ると、旦那を連れたNだった。えーっ。店をやめてもう8年にもなる。おとなになったなあ。「また、どこかで」「そうだね」。その日は行ったことのない、誰もいない公園のベンチで日本酒を飲んでいた。気がつくと、バラバラと別々に老人たちがやってくる。みな男で軽い挨拶もしているので知り合いのようだが、それぞれの場所に離れて座っていた。誰かが大きな声で何かを言っているが、集まってきた鳩か、そこにいる誰かに向かって言っているのかもわからない。絶妙な野良猫の距離感だ。野良猫とはキワである。キワは失敗の先にある。その人たちがどう感じているのかはわからないが、野良猫の私には居心地が良く、楽しかった。みんな、元気か。私は変わらずにまだ、こうして生きています。

深夜の散歩


ついこの間まで暑さと蚊にまいっていた休日散歩だったが、あっという間に日が暮れるのが早くなり、今度は夕暮れの北風が堪えるようになった。散歩の愉しみは非日常にある。街は変貌を続け、一服しながら缶チューハイを飲んでいる老人が安穏としていられるような場所はなくなった。それでも町の隙間や郊外の森には、妖怪たちが蠢いているディープな場所がある。そういう嗅覚だけは持ち続けたい。コロナ禍で沈黙が支配する日常が続き、電車に乗ればただ静寂だけがある。しかし駅を降りた帰り道の深夜は、いつも変わらずに優しい。
今年の春にバーをやっていたSから、数年ぶりに近況報告の電話があつた。店をやめてから店のあった町とはすっかり疎遠になってしまったが、Sの交友関係は変わらずに広い。彼の親父世代の人たち(私より若いが)の中にはコロナ感染で、辛い目にあった人もけっこういたようだ。Oさん(O阪弁のOとしておこう)が数年前に亡くなった事も知った。一杯やって店に寄るOさんは何故か大阪弁で話し、週末を過ごす八ヶ岳の別荘で聴くレコードを探していた。そして、ご機嫌で二軒目の店へと向かうのが常だった。時には飲み屋仲間の若い連中を連れて別荘で飲み会をしたりと、なんとも優雅にみえたものだ。店をやめた後に一度、その町での飲み会に参加したことがあったが、その時は変わらずに元気だった。店をやっていて、私よりも若い人たちを何人か見送ることになったが、彼のようにタフで生命力が強いと思える人も多かった。明日のことは何も分からない。今日飲む酒が美味ければ、それでいいのだ。
酒の肴にテレビで、”ヒロシの迷宮グルメ”を観ている。 世界中のどこも鉄道のある駅前は開発が進むが、そのすぐ近くの隣りあった場所にはまだ迷宮が残っている。言葉もわからない異郷で、フラリと降りた駅にある迷宮食堂に入る番組なのだが、それはヒロシのもうひとつの番組でもある”ソロキャンプ”とよく似ている。バックパッカーのような暮らしをしていた人が、都市の日常に戻ると病んでしまうことがあるのは、非日常の不在に押し潰されるからだ。ラジオをつけると、みうらじゅんが深夜放送を聴き、吉田拓郎の真似をしてギターを抱えて旅に出た”青春ノイローゼ”を語っていた。中学生の私は時々、トランジスタラジオを持って深夜放送を聴きながら散歩をしていた。その頃、福永武彦中村真一郎丸谷才一によるミステリ紹介本『深夜の散歩』に出会った。本の中には異郷も迷宮もある。猪口の中の酒の揺らぎにも、それがある事もやがて知った。異郷の地や深い森へと行かなくても、想像力さえあれば何時でも何処へでも行くことは可能で、迷宮を彷徨うこともできる。今夜も一杯やりながら、”深夜の散歩”へと出かけることにしよう。


JAZZの時代


ジャズ喫茶はどの街にもあった。渋谷のスゥイング デュエット 音楽館、代々木のナル、新宿の木馬 ポニー DIG DUG、高円寺のサンジェルマンなどにはよく通っていた(店名を忘れたところもあり”ジャズ喫茶のマッチ”というサイトを参照した)。この国ではリゾート地を思わせる爽やかで軽快な渡辺貞夫や日野皓正といったスターも生まれたが、違和感があった。ショートピースの煙に満ちたジャズ喫茶で聴くモダンジャズやフリージャズは、ビリー・ホリディが歌う”奇妙な果実”、リンチにあった黒人たちの木に吊るされた死体の光景から生まれたものだ。ジャズは自由への闘争や逃走、渇望だった。
退廃的な空気や悲しみに彩られていた阿部薫は、70年代の後半に29歳で死んだ事により伝説のように語られ、近年でも関連書が出版されている。解放と自由の1960年代だったが、1970年頃にはそれが挫折へと変わり、ジャズも衰退をしていく。それは、阿部薫の軌跡と奇麗に重なっている。その孤独の魂はSF作品などを書いていた鈴木いづみ(全集などが現在も出版されている)と出会い、数年だったが結婚生活を送る事になる。鈴木いづみ寺山修司の映画”書を捨てよ町へ出よう”に、つげ義春の”ねじ式”にでてくる女医の役で出演していたが、小説が売れる以前にはピンク映画にも出演していたことがあった。早稲田松竹のスクリーンで作品を観たが、そこにあったのは刹那で、どこか寂寥感が漂っていた。そして、鈴木いづみは社会がバブル景気に浮かれ始めた頃、それに逆らうように36歳で自死をしてしまった。変遷していく時代の言葉や音楽に背を向け続けたふたりだった。
久しぶりにラジオをつけると、町山智浩ポール・ニューマンの”暴力脱獄”と”ハスラー”について熱く語っていた。どちらも私の好きな映画で、名画座やテレビの放映で何度か観た。私たちは誰もが死へと向かう同じ監獄を生きているが、その歴史は戦争とジェノサイド(特定の民族や宗教への大量虐殺)の繰り返しだ。悲しい事に、共感と利他が隷属と排除を生み出してしまう。それを鼓舞するのが言葉であり、何よりも音楽であるのも皮肉だ。それでも尚、人は語り続け、歌い続けるしかない。しかし、どんな状況にあったとしても自由と幸福はある。それは、”暴力脱獄”のルーク(原作のタイトルは”クール・ハンド・ルーク”で出版もされている)の抵抗と諦念の中でも、いつも変わる事のない笑顔にあった。

有り難や


NHKでは今、宇宙論の他に数学の番組もやっている。先日は望月新一ABC予想の証明、『宇宙際タイヒミュラー理論』を芸人のパンサー尾形が解説していたが、否定的な数学者もいる理論でほとんどわからない。未見だが、10数年前に物理学者のリサ・ランドールと若田光一が対談する番組があり、これは書籍化されている。3次元は膜世界であり、それを取り巻く5次元世界を語っているのだが理解する事は難しい。だが、わからないものこそ愉しい。わからないからどうとでも言えるのも確かで、『5次元からのメッセージ』のようなオカルト本も多数発行されている。それを含めてただ愉しめばいいのである。
ETV特集では、今年の芥川賞候補作5作品が紹介されていた。すべて若い女性の作品で、そこには属性を求められレッテルを貼られる気持ち悪さ、生きづらさが描かれている。政治や宗教の偏狭な家族観や青少年像は、近代が都合よく生み出した幻想だ。元々、武士道と男色は相性が良く、女装や男装も普通にあった。20年近く前の思想の科学という雑誌を見ると、『セクシャリティの愉しみ』という特集が組まれていた。 LGBTQを権利の問題として語るのはいい事ではあるが、街にあったゲイ・ポルノ映画館などは消え、愉楽として語られることはなくなった。碌に議論もせずにAV女優の権利を守るためにと成立させたAV新法だが、それは差別意識に基づく視点で作られており、逆にAV女優を不幸にしていると、憲法学者小林節らが訴えている。多様な語り口が消えれば、そこから欠落していくものばかりが増える
人の数だけ、趣味嗜好はある。民主主義が壊れていくのは、属性を求められ、他者の趣味嗜好を否定するようになった時だ。そのやり口はあまりにも簡単なのだ。酒税や煙草税は恐ろしく高いが、まだ上がるだろう。それをやらない人にとっては、酔っ払いなど消えてしまえばいいし、その事をいい気味だと思うかもしれない。しかしそう思う事こそが、自身の趣味嗜好もまた否定される危機であり、生きづらさに押しつぶされそうになる要因なのである。

至上の愛


オカルト雑誌が興隆していた頃があった。ムー、トワイライトゾーンUFOと宇宙ボーダーランド、他に一般の青年誌などでも特集が組まれたりもしていた。大予言 超古代文明 UFO イルミナティ 秘密結社 偽書と古代史 UMA 超科学 霊魂と転生など、毎月よくネタを探せるものだと感心した。今多く発行されている健康誌と同じようなものだろうか。しかしそれらを組み合わせると、時によくできた話があり、そこにはSF的想像力の萌芽があった。ちょうどその頃、正統的な文学や芸術から外れた異端の作品が、澁澤龍彦種村季弘らによって広く紹介され始めた。絵画では名画の隠された意味といった解説書は近年、中野京子や西村文彦らによって数多く出版されている。そこにはただ美しいだけではない暗黒がある。美術館で展示されることのないエロティック絵画や春画などでは、もう何でもありだ。オカルティズムやエロティシズムは人の歴史と共にあり、今ある陰謀論やカルトは、それらを恐ろしく劣化させたものに過ぎない。
テレビからは低俗な番組や過激な表現が消えた。街からも猥雑さや匂いは消えている。そして人の免疫力は失われていく。オカルティズムやエロティシズムは本来、笑いに変換できるものだ。美や感動ばかりを求める無知が、理解できないものを信じたり、恐れたり、あるいは攻撃をするような事にもなる。NHKプロパガンダ映画に関する番組をやっていた。ゲッペルスエイゼンシュテインモンタージュ理論に基づく映画を観て、「邪悪な思想も、すぐれた芸術作品として観せれば、大衆を洗脳できる』と言ったが、それは今の消費社会でも変わらない。恋愛映画のように見せたプロパガンダ映画であるカサブランカのように、それはいたるところに巧妙に仕掛けられている。
Eテレでは今、宇宙論の番組を放映している。この宇宙は138億年前に素粒子と反素粒子がぶつかり消滅していく中で、数億個の中から生まれたかすかなズレが創った。古いSF小説では、人が実験室で宇宙創生を再現し、そこにできた小さな宇宙の中の惑星に文明が生まれるというテーマはよくある。神とはそういう想像力の事だ。そこには献金や現世利益などあるわけもなく、そこにある幸福は非生産と無償である。