異人


山田太一の原作を再映画化したイギリス映画、”異人たち”が公開されている。監督の体験でもある80年代のゲイの人たちの心情が描かれていて後半はかなり原作と違うようだが、死んだ両親と出会う設定は変わらない。大林宣彦が監督をした”異人たちとの夏”は何度も観ている。両親の死んだ年齢になった主人公が、死んだ時のままの両親と出会い、何も変わらない親子の会話をするいくつかのシーンは忘れられないし、そこには私が好きで何度も通った頃の薄暗い浅草がある。スタニスワフ・レムの小説が原作のタルコフスキーの”ソラリス”はひとつの生命体である惑星に人がたどり着き、その惑星が人の意識下にある光景を具現化して見せてくれるというものだった。そこに現れるのは、失われた文明や家族の記憶である。何かをアップデートしたところで、人の本質が変わるわけではない。富を独占したものはいつか火星に移住し、進化した生成AIはキリストをも復活させるだろう。しかしその進歩には何の意味もない。タルコフスキーが”ノスタルジア”で見せてくれた光景とは、そういうものだった。
何を言っているのか、まったく聞き取れない電話がかかってきた。ようやく花屋のTちゃんだという事はわかった。そこで知人に連絡をし入院をしている状況を知り、SとCとで見舞いに行く事になった。店をやめて10年目になる。店のあった町には6年くらい前の飲み会に一度だけ行ったことがあるが、それっきりだ。病院帰りに飲む事になりついていくと、私が最初にやっていた店の線路向こうにある、バラックのような不思議な店だった。トイレが厨房を通り抜けた屋外にあり、そこに厨房の低い屋根がある佇まいは水木しげるつげ義春の世界だ。その後に駅近くの狭いバーにも行ったのだが、満席で熱量もすごい。どちらも町のほとんどの住人は気付かずに通り過ぎてしまうのだろうが、不適切な人たちが居心地よくいられる場所は、この町の隙間にもちゃんと残っている事が嬉しかった。SとCは変わらずにこじれていたが、彼らの親世代も含めて”社会の普通”に流されるような家族でもない。ややこしい世界を、ややこしく生きてください。幸福とは、”私の普通”が変わらずに続くことである。
私は公共の施設が苦手である。Tちゃん、ごめん。私は病院にはいけないし、別人のような姿も見たくない。坂本龍一のドキュメンタリーを観た。体調には波があるし、奇跡的な事は起こる。いつか花咲く樹の下で、猪口に浮かぶ花びらを眺めながら一杯やろう。その時は遠いあの頃のように、どうでもいいバカな話をして笑っていたい。