深夜の猫


猫の話は何度も書いている。それでも、木枯らしの季節になるとまた、長毛の巨大な白猫の事を思い出すのだ。長い間、玄関が引き戸の風呂なし安アパートに住んでいた。そこにはさまざま人がいて、いろいろな事があったのだが、それはまた別の話としておこう。今はアパートも、その隣にあった銭湯も更地になっている。寒い冬の深夜だった。近所の行きつけの飲み屋からの帰り道にフッと振り返ると、いつのまにか巨大な猫がヨロヨロとついてきていたのだ。部屋の引き戸を開けると、猫は当たり前のように私の横をすり抜けて部屋に入っていった。その頃から走ることはなく、お漏らしなどもしていたので相当な高齢のようだった。野良にはみえないが、迷い猫を探しているというような事もなく、そのまま部屋で暮らすようになった。そんなある日の深夜、アパートの前の駐車スペースで驚くほどの数の猫が集会をしていた。部屋の裏手には長屋風の学生アパートがあり、その境のブロック塀は猫の通り道になっていたのだが、それからは部屋の前で立ち止まり、こちらの様子を伺う猫が増えていった。
それから何年か経ち、商店街から遠く離れた町のはずれに引っ越す事になった。あのたくさんの猫たちと引き離してしまう事は申し訳なかったが、猫を置いていくわけにもいかない。引っ越したあたりには店などは一軒もなく、行きつけの飲み屋もやめてしまったので店が終わるとただ、ローソンで”からあげクン”を買って帰る毎日になった。私はからあげの殻で一杯やり、横では猫が好物の中身の肉を食べている。そしてお漏らしをしそうになると、手元に置いてある新聞紙を広げるというのが日課だった。猫が死んだ後、近所にある鬱蒼とした寂れた公園に散歩にいった時の事だ。小さい池の淵にある古い木製のテラスの手すりの上に、死んだ猫によく似たやはり長毛の大きな白猫がいた。それから休日には時々、ポケットにチーズ鱈を入れて公園に行くと、その猫は必ず同じ場所にいた。そんな日が続いたある日、横になっている白猫の周りを囲んで、多くの猫が身じろぎもせずジッとその姿を眺めていたのだ。私が猫の集会や公園の猫の最期に立ち会えたのは、あの巨大な白猫のおかげだという気になる。
町には不寛容が溢れ、本当に困った挙句の事だとしてもルール違反だと非難をされる。もし自分とはまったく違う価値観の人がいて、その人の行為を理不尽に感じたとしても、自分の立場と相手の立場とを置き換えて考えてみる想像力を持ち続けるしかない。他の生き物に対しても同じ事だ。猫には猫の生き方がある。ひと気のない公園で一服するためのベンチを探していた。するとそこにはくつろいでいる先客の猫がいた。邪魔をしては悪いので、「どうか、お元気で」と言って立ち去ることにした。後ろから声がしたので振り返ると、じっとこちらを見ていた猫がゆっくりと目を閉じた。私には確かに、「そちらこそ、お元気で」と聞こえたのだ。
若い頃、毎日のように中央線にある町で朝まで飲んでいた時期があった。古着屋や雑貨屋が閉まり、ライブや芝居が終わった深夜、さまざまな人が飲み屋に集まってきた。そこでも、いろいろな事件や失敗があったが、それもまた別の話としておこう。あの頃の町はいつも寛容だった。どこの路地にも猫がいて、酔った私が「元気ですか」と声をかけると、猫は「もうすぐ夜が明けますよ」と言うのだった。