惜春


大河ドラマ”光る君へ”を観ている。陰謀と暗殺の日本史はわかるのだが、紫式部が主人公であれば、橋本治が桃尻語訳をした源氏物語枕草子の”ギャルの力”を観ていたい。網野善彦が書いた、全国を流浪しいていた被差別民である芸能の民の”中世のネットワーク”も丁寧に描いてほしい。来年の大河ドラマ蔦屋重三郎が主人公になるようだ。大衆文化が花開いた時代だ。様々な読み物や浮世絵が出版されたが、アイドル的な人気のあった歌舞伎役者や花魁も被差別民である。1960年代の小劇場運動でも唐十郎は”河原乞食”を標榜していた。河原乞食にあるものは反権力と自由でしかない。今では差別は許されないが、何者かになった人たちは、筋肉や知性(という反知性)の鎧を身につけ、権力者と同じような振る舞いをするようになってしまう。ヘミングウェイは『勝者には何もやるな』と書いた。金や名誉ではない孤独な戦いがある。
芸人のみやぞんは海外ロケで、一年の多くを世界の果てまで行っているが別に行きたいところはない、何もない場所で木の棒を持ち、一日中ただ座っている人たちを見ていると、特にやりたいこともないと語っていた。自己啓発本が売れるのはアメリカと日本だけだという。営業至上主義と自己責任の国だ。秘境人の番組を見ていると、長野の山奥に移住した家族がでていた。それ以前は優秀な営業マンと看護師だったようだが、いくら稼いでも何かあったらという不安は消えることがない。彼らは今は金はないが、食べていくくらいははなんとでもなるという解放感や安心感があると言った。その姿は20年近く前の写真よりも若く、いい顔をしていた。イザベラ・バードが”日本奥地紀行”を書いたのは明治時代の、150年くらい前の事だった。まだ襖一枚が仕切りの商人宿くらいしかなかった遠野に行った時のことだ。年配の女性のグループがいて、ずっと三陸に住んでいるが、皆が生まれて初めての旅行だと話していた。それは30数年くらい前の事になる。
近年の春は突然やってきて、あっという間に去っていく。散りゆく花びらを眺めながら一杯やった。思考停止がいいのだと、すべてが速く過ぎていく。”田園に死す”のラストシーンを思い出していた。現在の私が過去に行き、暗い部屋で母親とふたりで食事をしている。後ろの壁が倒れると寒い、何もない現在の新宿の雑踏があり、そこには家族や国家に縛られていた、今と変わらない少年時代の私が立っているのだ、