JAZZの時代


ジャズ喫茶はどの街にもあった。渋谷のスゥイング デュエット 音楽館、代々木のナル、新宿の木馬 ポニー DIG DUG、高円寺のサンジェルマンなどにはよく通っていた(店名を忘れたところもあり”ジャズ喫茶のマッチ”というサイトを参照した)。この国ではリゾート地を思わせる爽やかで軽快な渡辺貞夫や日野皓正といったスターも生まれたが、違和感があった。ショートピースの煙に満ちたジャズ喫茶で聴くモダンジャズやフリージャズは、ビリー・ホリディが歌う”奇妙な果実”、リンチにあった黒人たちの木に吊るされた死体の光景から生まれたものだ。ジャズは自由への闘争や逃走、渇望だった。
退廃的な空気や悲しみに彩られていた阿部薫は、70年代の後半に29歳で死んだ事により伝説のように語られ、近年でも関連書が出版されている。解放と自由の1960年代だったが、1970年頃にはそれが挫折へと変わり、ジャズも衰退をしていく。それは、阿部薫の軌跡と奇麗に重なっている。その孤独の魂はSF作品などを書いていた鈴木いづみ(全集などが現在も出版されている)と出会い、数年だったが結婚生活を送る事になる。鈴木いづみ寺山修司の映画”書を捨てよ町へ出よう”に、つげ義春の”ねじ式”にでてくる女医の役で出演していたが、小説が売れる以前にはピンク映画にも出演していたことがあった。早稲田松竹のスクリーンで作品を観たが、そこにあったのは刹那で、どこか寂寥感が漂っていた。そして、鈴木いづみは社会がバブル景気に浮かれ始めた頃、それに逆らうように36歳で自死をしてしまった。変遷していく時代の言葉や音楽に背を向け続けたふたりだった。
久しぶりにラジオをつけると、町山智浩ポール・ニューマンの”暴力脱獄”と”ハスラー”について熱く語っていた。どちらも私の好きな映画で、名画座やテレビの放映で何度か観た。私たちは誰もが死へと向かう同じ監獄を生きているが、その歴史は戦争とジェノサイド(特定の民族や宗教への大量虐殺)の繰り返しだ。悲しい事に、共感と利他が隷属と排除を生み出してしまう。それを鼓舞するのが言葉であり、何よりも音楽であるのも皮肉だ。それでも尚、人は語り続け、歌い続けるしかない。しかし、どんな状況にあったとしても自由と幸福はある。それは、”暴力脱獄”のルーク(原作のタイトルは”クール・ハンド・ルーク”で出版もされている)の抵抗と諦念の中でも、いつも変わる事のない笑顔にあった。