深夜の散歩


ついこの間まで暑さと蚊にまいっていた休日散歩だったが、あっという間に日が暮れるのが早くなり、今度は夕暮れの北風が堪えるようになった。散歩の愉しみは非日常にある。街は変貌を続け、一服しながら缶チューハイを飲んでいる老人が安穏としていられるような場所はなくなった。それでも町の隙間や郊外の森には、妖怪たちが蠢いているディープな場所がある。そういう嗅覚だけは持ち続けたい。コロナ禍で沈黙が支配する日常が続き、電車に乗ればただ静寂だけがある。しかし駅を降りた帰り道の深夜は、いつも変わらずに優しい。
今年の春にバーをやっていたSから、数年ぶりに近況報告の電話があつた。店をやめてから店のあった町とはすっかり疎遠になってしまったが、Sの交友関係は変わらずに広い。彼の親父世代の人たち(私より若いが)の中にはコロナ感染で、辛い目にあった人もけっこういたようだ。Oさん(O阪弁のOとしておこう)が数年前に亡くなった事も知った。一杯やって店に寄るOさんは何故か大阪弁で話し、週末を過ごす八ヶ岳の別荘で聴くレコードを探していた。そして、ご機嫌で二軒目の店へと向かうのが常だった。時には飲み屋仲間の若い連中を連れて別荘で飲み会をしたりと、なんとも優雅にみえたものだ。店をやめた後に一度、その町での飲み会に参加したことがあったが、その時は変わらずに元気だった。店をやっていて、私よりも若い人たちを何人か見送ることになったが、彼のようにタフで生命力が強いと思える人も多かった。明日のことは何も分からない。今日飲む酒が美味ければ、それでいいのだ。
酒の肴にテレビで、”ヒロシの迷宮グルメ”を観ている。 世界中のどこも鉄道のある駅前は開発が進むが、そのすぐ近くの隣りあった場所にはまだ迷宮が残っている。言葉もわからない異郷で、フラリと降りた駅にある迷宮食堂に入る番組なのだが、それはヒロシのもうひとつの番組でもある”ソロキャンプ”とよく似ている。バックパッカーのような暮らしをしていた人が、都市の日常に戻ると病んでしまうことがあるのは、非日常の不在に押し潰されるからだ。ラジオをつけると、みうらじゅんが深夜放送を聴き、吉田拓郎の真似をしてギターを抱えて旅に出た”青春ノイローゼ”を語っていた。中学生の私は時々、トランジスタラジオを持って深夜放送を聴きながら散歩をしていた。その頃、福永武彦中村真一郎丸谷才一によるミステリ紹介本『深夜の散歩』に出会った。本の中には異郷も迷宮もある。猪口の中の酒の揺らぎにも、それがある事もやがて知った。異郷の地や深い森へと行かなくても、想像力さえあれば何時でも何処へでも行くことは可能で、迷宮を彷徨うこともできる。今夜も一杯やりながら、”深夜の散歩”へと出かけることにしよう。