歩く


ETVで谷口ジローの漫画が原作の井浦新が出演している”歩くひと”を観た。何でもない、誰もいないような場所をただ歩くだけという内容なのだが、そんな普通の事が難しくなった年だった。都心から離れると、人の集まる施設に車で移動する人がほとんどで、歩くひとを見る事も少ないので、こんな時節でも特に問題もない。同じ場所を歩いていてもただつらいだけの人もいれば、路傍の草や虫を知るだけでも幸福を感じる人もいる。楽しさとは何かができたとか、何かになったとかの特別な事ではなく、何でもない事の細部に宿っている。緊急事態制限が解除されようやく自由な散歩ができると思っていると今度は、気温35度といった日々ばかりになった。C・W・ニコルが森は天然の巨大なクーラーと言っていたが、アスファルトとコンクリートと無数の室外機から離れてもなおこの暑さから逃れる事ができない。気候は凶暴になり、高温、長雨、豪雨、台風とただ過ぎ去る事を待つ時間ばかりが増えていく。
同じETVの”100分de名著”で吉本隆明の『共同幻想論』が語られていたので、懐かしく観た。1968年に出版され、当時の学生の本棚には必ずあると言われるくらいのベストセラーになり、その頃高校生だった私の本棚にもあった。まだ”デカンショ節”が忘れ去られていない頃だ。『デカンショデカンショ(デカルト、カント、ショーペンハウエル)で半年暮らす。後の半年ゃ寝て暮らす』何の役にもたたない、まるで生産性のない在り方だが、何かの害になる事はない。いわば老荘思想だ。人は何も変わらずに何千年かを過ごし、同じ間違いを繰り返す。共和制があれば、その後には王政復古がある。 吉本隆明は『都市下層庶民の共同幻想への回帰』と書いた。世界中でそれが顕著になっている。共通の価値観を求め、それ以外の多様性を排除する。オルテガのいう”大衆の反逆”だ。共通の価値観は”わかりやすさ”から現れる。共感ビジネスやサロン商売はそれをうまく利用しているし、その”わかりやすさ”が為政者の暴走を後押しする。100万人の共感よりも50人の理解を100年後の世界に残したい、というような編集者もみなくなった。すべてが経済効率で語られ、分類されていく。イデオロギーで世界は変わらない。吉本隆明は普通に暮らす庶民が、日常の中に現れる”違和感“に気づくことが大切だと語っていた。今、世界のどこをみても”違和感“だらけだが、誰もが気づかないフリをしているように見える。この国の同調圧力世論調査の結果をみると、国や村の共同幻想に対峙する個人幻想はどこに消えてしまったのだろう。
やはりETVの番組で『夢の本屋をめぐる冒険』の1話と2話を観た。どの時代にも困難はあったが、どんな時でも精神の自由と想像力はあった。人は無数の個人幻想を生み、その中で幸運にも活字になった膨大な書物があるが、それもいつか忘れられ、捨て去られていく。それらを蒐集する巨大な本屋が世界にはまだ残っている。そこにはネットの検索ではたどり着けない過去の人や事物があり、この世界に違和感を感じている人が深くわかりあえる何かと出会う奇跡も起こるだろう。差別と偏見、分断と排除は為政者が都合よく利用できる最大の武器になる。自由な嗜好と冒険、効率とは無縁の日常の細部の楽しみこそが、それに対抗できるのだ。
今週からの秋競馬は全国のウインズでメインレースのみ発売される事になった。雑誌をパラパラと開いていると”無尽”という言葉があった。落語を聴いていた頃はよく耳にした言葉だ。皆が金を持ち寄る、相互扶助のシステムだ。競馬とは”無尽”だ。困った時には愛した馬が助けてくれるだろう。エアコンのない部屋で、微かな風を探しながら一緒に昼寝をしていた猫も、そう言っている。そうだ、とりあえず何も持たずに散歩に出かけよう。