有り難や


NHKでは今、宇宙論の他に数学の番組もやっている。先日は望月新一ABC予想の証明、『宇宙際タイヒミュラー理論』を芸人のパンサー尾形が解説していたが、否定的な数学者もいる理論でほとんどわからない。未見だが、10数年前に物理学者のリサ・ランドールと若田光一が対談する番組があり、これは書籍化されている。3次元は膜世界であり、それを取り巻く5次元世界を語っているのだが理解する事は難しい。だが、わからないものこそ愉しい。わからないからどうとでも言えるのも確かで、『5次元からのメッセージ』のようなオカルト本も多数発行されている。それを含めてただ愉しめばいいのである。
ETV特集では、今年の芥川賞候補作5作品が紹介されていた。すべて若い女性の作品で、そこには属性を求められレッテルを貼られる気持ち悪さ、生きづらさが描かれている。政治や宗教の偏狭な家族観や青少年像は、近代が都合よく生み出した幻想だ。元々、武士道と男色は相性が良く、女装や男装も普通にあった。20年近く前の思想の科学という雑誌を見ると、『セクシャリティの愉しみ』という特集が組まれていた。 LGBTQを権利の問題として語るのはいい事ではあるが、街にあったゲイ・ポルノ映画館などは消え、愉楽として語られることはなくなった。碌に議論もせずにAV女優の権利を守るためにと成立させたAV新法だが、それは差別意識に基づく視点で作られており、逆にAV女優を不幸にしていると、憲法学者小林節らが訴えている。多様な語り口が消えれば、そこから欠落していくものばかりが増える
人の数だけ、趣味嗜好はある。民主主義が壊れていくのは、属性を求められ、他者の趣味嗜好を否定するようになった時だ。そのやり口はあまりにも簡単なのだ。酒税や煙草税は恐ろしく高いが、まだ上がるだろう。それをやらない人にとっては、酔っ払いなど消えてしまえばいいし、その事をいい気味だと思うかもしれない。しかしそう思う事こそが、自身の趣味嗜好もまた否定される危機であり、生きづらさに押しつぶされそうになる要因なのである。