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『小説は反社会、反道徳、反文学、反現実の反宇宙であるべきだ。それを読んだがさいご二度と、完全にはもとの正気の自分には戻れなくなってしまう、そんな妖しの黒魔術、悪夢を見るための阿片が私はほしいのだ。』
『私にとっては小説とは、こういうものであるー即ち、妖しさ、艶めかしさ、グロテスク、悪趣味、白日夢、美学、頽廃、淫蕩、奇形、倒錯、暗闇、豪華、高貴、けだるさ、阿片、地獄。』
”いま、危険な愛に目覚めて”というアンソロジーを久しぶりに見かけたので、20数年ぶりに開いてみた。上の言葉は選者である栗本薫が解説で書いていたものだ。このアンソロジーには川端康成江戸川乱歩赤江瀑宇能鴻一郎などの短編が収録されているが、解説では他にも中井英夫久生十蘭橘外男小栗虫太郎塚本邦雄といった作家の名前が出てくる。彼らの作品は皆、若い頃の私の本棚にも並んでいた。日常の違和感、問題意識、悪意、苦悩、喪失、希望、再生、救済といったそれなりに売れる作品は、職業作家と名乗っている人の技術があれば簡単に書くことができる。 「人はパンのみに生きるにあらず」「ユイスマンスの『狂人か凶賊か聖者にしか興味はない。他のは俗衆だ』に心から共感する」と言い切る栗本薫の潔さと覚悟を支持したい。出版されるあてもなく、もし世に出たとしても非難や罵倒を浴びるかもしれない、異形の恐るべき小説は、街の光の届かない場所で誰かが書き続けているだろう。
本屋に入ると、棚にそんな”妖しい光”を放つ本はないかと、背表紙のタイトルを追うのだが、見かける事はない。古本屋はどこもおしゃれな空間になり、未知の奇怪な作品と出会う事もない。奥に成人コーナーのある古本屋があったので、伊藤晴雨団鬼六のような妖しさがあるのかと入ってみたが、そこもまたキラキラとしていた。マンガ以外の紙媒体のエロは既に絶滅していたのだ。映画や音楽などと同じで、どこにもジャンルの多様性はあるのだが、それはマニア向けに類型化し、無毒化して縮小再生産された隙間商品だ。奇想と悪夢の大伽藍はどこにあるのだろう。寺山修司は「私に想像力がなければ、永山則夫になっていただろう」と書いた。虚構が浄化され、無菌化が進むほどに、現実は空疎で不穏になる。宇宙船で地球を周回しようが、火星のマンションに移住しようが、それは単なる日常なのである。