矛盾


世界は数式でできている。実数、0や虚数の発見がなければ経済は成立しないし、幾何学がなければ巨大な建造物もできなかった。”笑わない数学”の新シリーズを観ている。数学的な能力はまったくないので、酒を飲みながら観てクラクラしているのが楽しい。古代エジプトユークリッド幾何学の公理で、『任意の直線と別にある点から並行する直線は一本しか引けない』が美しくないと考える人たちがいた。そして19世紀にそれ以外の『2本以上引ける』と『1本も引けない』のどれもが正しいということが証明されてしまった。それが非ユークリッド幾何学だ。それは今では宇宙の観測が進むことで実証もされた。そこには新しい形の世界が出現したのだが、この見えている世界に矛盾のない絶対真理を求めて、数と数式を1から証明しようという人たちも現れた。その証明は困難を極め、ついにはゲーデルがどんなに基礎を固めても証明できないものがあるということを証明してしまった。不完全性定理の発見だ。
世界は矛盾でできている。合理主義や啓蒙思想、理性で物事を解決しようとしても、世界は一向に良くなることがない。”世界サブカルチャー史”でヒースが『理性の穴埋め問題』という、理性を代替する嗜好を語っていた。理性の否定や道徳への反抗は60年代は左派、学生運動やヒッピー思想として現れ、それらへの失望が30年後には右派、陰謀論や排外主義として現れた。オカルティズム、エロティシズム、アナクロニズムなどは本来、知的遊戯だ。本や雑誌などのメディアは編集された知性だが、インターネットは未編集な感情である。そこには編集とは捏造であるという嫌悪と、わかりやすい感情への共感がある。広告や政治から言葉が消えたのも、人の感情を刺激し高揚させる非合理を利用する方が有効だからだ。しかし自由に見えたその世界にあったものは、相互監視や排除、攻撃性であり、懲罰的だったのである。人はパラドックスの陥穽に陥り、際限のない消費や虚飾から逃れることができないでいる。
希望はやはり理性と虚無である。老子の”無知無欲”とは理性の事だ。人は誰にでも悪意と善意の両面性があり、世界には合理も不合理もある。”古今和歌集”を語る番組を観た。その世界では歩く道すがらに言葉を拾い、”あわい”や”見立て”で想いを託し、推敲と編集を重ねる。そこに現れた言葉は多面的であり、”あはれ”や”なぐさめ”があり、そして身に纏っていた立場や境遇、役割から解放される事もできるのだ。古今和歌集をきちんと読んだ記憶はないのだが、いくつか紹介された和歌を聴くと、どれも覚えていた。『世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし』 春よ、来い。