シガー・ロスの秋


凶暴な夏が終わり、ようやく秋がきた。若い頃から、ただでさえ暑苦しい青春のようなものは耐え難かったのだが、今ではビールを飲んで歩けば爽快感はまるでなく、ただ気持ちが悪くなるだけの暑さなのだ。青春には何でもあるが、何もない。年をとれば何もないが、何かがある。ただ熱燗を飲みながら、黄昏ていたいのだ。コタツ布団をだせば猫は膝の上で丸くなり、布団に入れば猫も潜り込んでくる。シガー・ロスを聴いている秋がきた。
政権のブレーンを長く続けている人が、自身の講演で『人口の少ない町に住む人たちは、地方都市にでてきてもらいたい。そうすれば道路や電気や水道といった生活インフラにかかる費用は大幅に抑えられる』というようなことを語っていたという。この新自由主義の人がやった事は規制緩和と効率化だけであり、それは国土と人心を荒廃させただけだった。都市の労働者不足を過疎地から移住した人たちの安価な労働力で補い、また自身の人材派遣の企業も潤うということなのだろう。
C・W・ニコルは多様な植生を持つ森を再生する事が、人工の構造物よりも有効な自然の巨大なダムやクーラーになりうると言い続けた。カリフォルニアでは気温が50度にもなる日が続き大規模な火災が起きているし、他の国でも同じ事が起こっている。地球の平均気温が2度上がれば、極地の氷河は消えていき、水没する島国もでてくる。この国でも35度という気温があたりまえになってきた。2度とは、人の体温でいえば38度超の高熱でフラフラになりながら生活しているようなものだ。
人を都市に集中させ、コンクリートに覆われた町で暮らさせれば、そこには巨大な冷暖房や空調の設備も必要になる。目先の経済効率で社会が語られるばかりで、 その弊害で持たされる災害への莫大な復興費用は無視され続けている。分散型の多様な生き方が国を守る。干ばつと洪水、他の災害も世界中で起こるだろうし、食糧危機や水不足はいつか深刻な状況になるだろう。異論を排除する国に民主主義はない。
何でもない、人のいない場所でポットに入れた日本酒を飲みながら、ゆっくり紫煙をくゆらせている。やがて空は茜色に染まり、星が瞬きはじめる、最高の時間だ。時が経てばそこは紅葉し、葉は落ち、そしてまた花が咲き、新緑の季節が来る。人は何者かにならなければ生きていけないという妄想に取り憑かれた生き物だ。そう願う人生はつらいけれど、ただ季節が巡る中での至福の一杯と一服があればいい。愛と自由と平和など束の間の幻で、この世界はディストピアに向かっているのだとしても、『ずっと楽しかったなあ』とつぶやいている私がいる。