謎の客


町には雑多な、混沌とした多様な店舗があるから面白い。今回のような厄災の中でそういった店が消え、似たような店ばかりになれば、町は人のいない落ち着く場所へと向かう間の退屈なただの通過点になってしまう。多様な店は客がつくり、育てるのだ。
古本屋は同じようになかなか売れない品を抱えても、店主の興味や愛着があるものは棚に据え置かれたままになり、そうでもないものは均一本として店頭で売られていく。古本屋に通うお客は、それぞれの店の特徴をよく知っているので、他の店で均一本として売られている品でも、その店に持っていけば喜んで買ってくれるという事もわかっている。そうして、それぞれの店の個性は際立ち、そういうお客はその店で売った本の代金はまた、その店で使ってくれるのだ。そんな風にお客が店を育ててくれていたのだが、ネットの出現でそれは大きく変わった。店にきていた映画関連のコレクターのお客たちは、ネットで出品される希少品のポスターの値崩れを防ぐために、適度な値段までそれぞれが入札をして値をあげ、落札したけれど必要ない品は大きな赤字になっても、専門店の仕入れを支えるために売りに行っていた。それでも最大手の専門店はたえきれず、結局やめてしまったのだ。アマゾンの検索で値段を調べて本を買う人が現れ、セドリの意味もまったく変わっていった。
人の本棚を見る事は何よりも楽しい。宅買は店の開店時間前に行っていたのだが、途方もない肉体労働になってしまったり、必要のないものばかりを引き受けてしまう事になったりするのだが、雑多な本を眺める楽しさには変えられない。教授の書斎の片付けを頼まれて行ってみると、専門分野以外の品は、どこにでもある文学全集や美術全集ばかりだったりする。六畳一間の安アパートにいってみると、壁一面の本棚に希少な書物ばかりが並べられていた事もある。亡くなった夫の本を処分したいというお客に、「すべて持って行ってもらえないかしら」と頼まれ、大量のまったく売れそうにない流行本の前で途方にくれていると、「恥ずかしいけど、こんなものも集めていたみたいで、なんとか処分してくださる」と渡された古いエロ本の山が貴重な品ばかりだった事もあった。
移転する前の店に、たまに数冊の専門書を売りに来る外国人がいた。ある日、海外に赴任する事になったようで買取を頼まれた。青梅の駅からかなり離れた古いアパートには本以外はフルートが置いてあるだけで、生活感はまるでなかった。売れそうな音楽書がある程度あり、それ以外の言語関連の書籍は需要はなさそうだったが、車には余裕で載せられる量だったので、すべてを引き受けた。それから数年して、店を移転した頃にまた、その外国人が数冊の本を持って現れたのだ。そしてまた以前と同じように、日本を離れる事になったのでと買取を頼まれた。今度は五日市の駅から離れた静かな場所にあるアパートだった。またゼロから買い集めたものなので、たいした量ではないだろうと行ってみると、ぎっしりと本がつまった衣装ケースが大量に積み重ねられていた。他には電気ストーブが3台と一枚の毛布、そしてフルートがあるだけで、相変わらずテレビやエアコンといった生活用品は何もなく、台所にも生活の痕跡はまったくなかった。時間がないので店でも売れそうな音楽と自然関連の書籍から積み込み、開店時間を遅らせて2往復した。それでもまだ言語学の専門書が大量に残っている。これ以上はとても無理だと、専門書の多くを買ったらしい本郷の古本屋で来てくれるところを探してもらった。しばらくして店に顔をだした彼は「うまくいきました」と言って、風のように去って行った。寡黙な人で自分の事については何も語らなかったので、何者だったのかはまるでわからないが、人のいない静かな場所とフルートがあればいいと言っていた記憶がある。私たちが必要だと思っているもののほとんどは、実は必要ないのかもしれない。たったひとつのフルート、そんなものがあればきっと生きていけるのだろう。