大河ドラマ『べらぼう』を観ている。蔦屋重三郎、平賀源内、大田南畝山東京伝恋川春町十返舎一九喜多川歌麿曲亭馬琴らの破天荒な生き方は痛快である。そこには対抗文化としての意地や矜持があり、くだらないことを真面目にやり、面白がる粋があった。もちろん現在のコンプライアンスから見れば暴力やハラスメントの時代でもあったが、物事は常に多面的だ。明治期に近代化を進める中で近世は否定された。今いわれている日本の伝統や、家父長制に良妻賢母といった家族観はその頃に作られたものだ。この国にはモダニズムもアンチモダニズムも、そしてポストモダンもなかった。アメリカの原風景は戦後に放映されたホームドラマでみた、芝生のある広い家に大きな車、 可憐な姉とやんちゃな弟のいる典型的中流家庭の家族観である。中世は暗黒のイメージとして捉えられることも多いが、ホイジンガの”中世の秋”や網野善彦の中世的世界に関する著作を読むと、別の景色も見えてくる。いつの時代にもその社会の在り方にとらわれず、自由を求める人たちがいた。藤代孝一は、謝肉祭劇は『文明社会で道徳規範に束縛された生活の代償行為』と書いている。カーニバルの謝肉祭劇や祭りの神楽にみる中世の笑い、そこにある生命力は性愛や糞尿譚のような禁忌を破ることで描かれた。江戸のワ印も同じだ。
マックス・ヴェーバーは『政治とは倫理ではなく、権力(暴力)である』と書いている。政治の暴走を監視するために戦後民主主義、民主憲法はつくられた。権力は敵をつくることで強固になっていく。しかし戦前の大本営に抗えなかったメディアと同じように、SNSポピュリズムは危うい。誰もがいじめられる側になりたくはなく、同じような意見や感想が溢れ、別の価値観を攻撃するようになり、やがて自縄自縛になっていく。秘境人の番組を観ていると、人里離れた場所でひとりで暮らしていても、孤独を感じている人はほとんどいない。そこでは現世の欲望は何の意味も持たず、幻想としての欲望だけがある。自然が友になり、充実した日常が繰り返されていく。ショーペンハウアーの”孤独と人生”やルソーの”孤独な散歩者の夢想”があるのだ。人が怖れるのは孤独ではなく、集団の中での孤立である。全体主義は個人を犠牲にするが、権力を賛美する集団を救うことなどなかった。
つげ義春の漫画、”海辺の叙景””ほんやら洞のべんさん”がモチーフの映画、”旅と日々”が公開されている。つげ義春の作品は雑誌ガロに掲載された時に読んでいるが、その後もさまざまな判型で作品集が出版されていて何度か読み返した。シュールで淫靡な妖しさがある、読者の想像力を刺激する”ねじ式”のような作品には圧倒もされたが、10代の私は彼の心象風景である寂寥とした透明感により惹かれていた。子供の成長には厳格な父と放蕩な叔父のような異なる価値観を持つ、ふたつの在り方が必要だが、その役割を担うのがサブカルチャーだ。サブカルチャーが多様な表現を持つことが健全な社会である。旅とは移動ではない。つげ義春には日常もまた旅である。私が丘陵にある寂れた公園のベンチで、一杯飲りながら見ているものは、”海辺の叙景”や”長八の宿”の大きく描かれたラストシーンの風景なのだ。橋爪大三郎構造主義を『自文化を相対化し、異文化を理解する方法論』と書いている。旅とは、それを知ることである。