隙間にて


年に一度くらい、ニール・ヤングの新しい映像はないかと探してしまう日がある。変わらずに活動を続けている、更に妖怪化した姿を見ていたい。載せた映像は10数年前のものだが、すさまじい熱狂だ。音楽には人を鼓舞し動かす力がある。デヴィッド・ボウイのスピーカーを東独側に向けたライブが、ベルリンの壁を壊すきっかけになったし、チェコビロード革命ルー・リードの音楽が大きな役割をはたした。しかし熱狂の先にあるものは、自滅や新しい独裁であったりするのも事実だ。スポーツ観戦などでもそうだが、観客が同じように動き、歌う姿は全体主義国家のマスゲームのようにもみえる。音楽と戦争は密接な関係にあった。キューブリックの映画”バリー・リンドン”の戦場シーンは印象的だし、パスカルキニャールは”音楽への憎しみ”を書いた。ブコウスキーが愛する競馬場や酒場の熱狂にあるものは”勝手に生きろ”であり、ニール・ヤングの”フリー・ワールド”の根底にあるものは、”孤独の旅路”や”ヘルプレス”なのである。権力を持つ悲惨や権力に服従した後悔はいつもどこにでもある。勝手に生き、個別に連帯するしかない。
散歩をしていると、人もまばらな神社の境内にモツ煮などを売っているテントがでていた。そこで熱燗のワンカップを飲んだのだが、視界の端に帰ろうとする家族連れがいて、最後に残っていた男の子がこちらをジッと見ている。すると急にはしゃぎだし、グルグル回ったり椅子を持ち上げたりもしている。テントの前に行くと、先に歩いていった家族の方向を見ながらしゃがみこんでいるので、父親が迎えに来て連れて行った。その後すぐにまた、父親に抱えられた男の子がテントの前に顔を出した。そしてこちらに向かって手を振っている。私も手を振っていると、そのうちに満足したのか帰って行った。よかった。どうやら私はまだちゃんと、妖怪に見えているようだ。しかしコンプライアンス同調圧力ばかりの社会では、異形のものは生きづらい。この世界は同じ顔をした怪物だらけだ。今日は裸電球の灯りに誘われてしまったが、熱燗を飲み終えたら仲間たちが潜む、街の隙間へとまた還ることにしよう。

『The chains are locked and tied across the door・・・
Big birds dying across the sky / Throwing shadows on the eyes
Leave us / Helpless Helpless・・・』
大鳥が飛んでゆく 私たちを残して