散歩をしていると、かって行った事のある本屋の多くが消えている。私の店があった商店街を久しぶりに車で通ると、ほとんどすべての商店が閉まっているシャッター通りになっていた。それでも雑誌や夕刊紙の文化欄を見ると、新刊も含めて新しくできた本屋も多くある。それらの店はこだわりが強く問題意識も高い、厳選された書籍を扱う店がほとんどだ。しかし私はカビ臭い、ゴッタ煮のような町の古本屋が好きだった。西田幾多郎とつげ義治と団鬼六が同じ棚に並んでいてもいいのだ。コンビニからはとっくにエロ本は消え、週刊誌や新聞すら置かない店もでてきた。何千円といった値付けの希少本が、町の古本屋でそう簡単には売れるわけもない。よく売れてくれるエロ本などがあったので、まったく売れない好きな本を買い、並べて置くことができた。
花や自然を眺めて、誰もが感じる美がある。しかし人工的なあまりにも華美な在り方には、俗や悪を感じることがあることも確かだ。絵画のモデルをされている方が、会田誠の大学の公開講義が性的であると大学を訴えたことがあった。会田誠の作品は、この社会の美意識に対するアンチ・テーゼであり、人の隠された一面を露悪的に現したもので、不快に思う方も多いだろう。芸術とは越境でもある。赤瀬川原平は名画を考察する文章の中で、アングルの”泉”は『やっぱり、風俗店の看板だ』と書いていた。俗にも美はあり、美にも俗はある。心地良さや豊かさの幻想の美を求めて美術館を訪れる人は、クールベの”白い靴下”や”世界の起源”といった作品をどのように見るのだろう。
人が容姿の美しさについて語る時、西洋美術の絵画や彫刻にみる裸像の刷り込みがある。フリーダ・カーロの自画像などの作品は、そういった価値観への痛烈な皮肉だった。生成AIがつくる女性のグラビアやゲームのアニメキャラなどにも悪趣味を感じる。悪趣味や悪場所は辺境にあってこそ輝く。SNSでは見たいものだけが現れ、見たくないものは現れない。不快に思う事には攻撃的になり、そこには対話もない。万里の長城やイギリスのハドリアヌスの長城のような壁は、今では世界中で増殖している。分断された世界では、見えない壁も高い。アメリカで”シビル・ウォー”という映画がヒットしている。南北戦争の死者数は60万人以上だったし、内戦での大量虐殺は数多く起こっている。テレビからガザの空爆で死んだ詩人、リフアト・アライールの詩、”If I must die”が流れてきた。https://youtu.be/TK18LZTTer4?si=XhVDn3aGycbV7Gxr