深川の江戸資料館で”文弥展”を観た時のことだ。江戸の町並みを再現した展示室の長屋は出入自由で、座布団の上に寝転がっていた。そこに文弥の弟子らしい2人組の”新内流し”が現れた。文弥の言うように、「猫の頭を撫でながら、たたみいわしを肴に日本酒を一杯やれればそれでいい」という心持ちになった。”新内的”を書いたのは、平岡正明だ。面白い連中がいる面白い時代を生きた。今の時代に青春を生きていたら、しんどかっただろうなと思う。無限のはずの想像力は萎縮し、不埒も異端もファッションにすぎない。思考停止をしなければ生きづらい時代だ。
酒の肴にドラマ
曜日の感覚もない生活だが、深夜ドラマで週末の気分を味わっている。前クールはテレビ東京の「バイプレーヤーズ」「山田孝之のカンヌ映画祭」「銀と金」と愉しめたが、今期は梶芽衣子をリスペクトの「女囚セブン」しか観ていない。そこで朝ドラの「ひよっこ」と倉本聰の「やすらぎの郷」を録画して観る事にした。朝ドラの女の一代記のような物語は苦手だし、ゴールデンタイムの犯罪心理や男と女の厄介な人間関係を描いた物語なども興味はなく観る気がおきない。しかし「ひよっこ」はオールロケという茨城の風景、ボンネットバスに方言、1960年代の東京を味わえる、酒の肴には最適な郷土資料館ドラマだった。岡田惠和が書く主人公のモノローグの台詞がうまい。「やすらぎの郷」は倉本聰の心情と役者への当て書きのメタ・フィクション、ワンセットワンシーンの会話が延々と続く時間の流れ、その反骨精神が深夜の一杯に沁みる。これが終わりなきドラマ、生ある限り続くメタ・フィクションだったら最高だと思いながら観ている。
抽象
フランシス・ベーコンの絵が深夜のテレビに映し出されていた。彼の絵には人間の本質があり、その眼差しが物語を紡ぎ出す。僕は子供の頃に観たホアン・ミロの絵が好きだった。世界をあんな風に観ていたかった。今、表現とはベーコンのような眼を持つことなのだろう。しかし僕は、何者でもない抽象でありたかったのだ。
FOREVER YOUNG
店を始めた頃、店を開ける前に近くの珈琲店でゆったりと一服するのが常だった。それから何年か経った頃だ。なんとなく居心地の悪さを感じ始めていたある日、珈琲店の客だったバイク乗りが「信号待ちの路上でくわえ煙草をしていた男の煙草をもぎとり踏み消した」と笑いながら語っていた。”規則は破るためにある”はずだったバイク乗りが、取り締まる側にいった。”規則をつくる側を監視”するのではなく、”市民が市民を監視”する暗黒の社会がくるのではないかと思ったが、それは急速に進んでいる。