洒落


立川談志の”遺言全集”を聴いている。談志は『俺が落語をダメにしたんじゃねえか』と書いているが、山藤章二が”遺言全集”の中の対談で、「談志は古典的落語ファンには迷惑だ」と語っていた。それまでは気楽に聞き流し、くだらねえなあと笑っていたものを、談志が”業の肯定””リアリティ””イリュージョン”などと言いだして、面倒なものにした。本もそうだ。タイトルをみて適当に買いパラパラと開いて、途中で放り投げた本が山になっていく。松岡正剛の”千夜千冊”では、毎夜のように語られる長文の文字を追うだけでも大変で、元本を手に取ろうという気になる人はほとんどいないだろう。しかしこういった人たちがいること自体が有り難い。以前と変わらず、同じように気楽に落語や本と接していても、そういう人たちがいることを知るだけで、見える景色が違ってくる。
高校生の頃、シモーヌ・ヴェーユやボーボワールを読み、政治やセックスを開けっぴろげに語っていた同学年の女性たちがいた。SFやミステリーを読み、場末の二本立の映画館があった二子玉川石井輝男を観、自由が丘ではスウェーデンポルノを観ていた私は、彼女たちに返す言葉は何ひとつ持っていなかった。在り方は様々であっていい。しかし牧場でギターを弾き今川焼きを焼いていた深沢七郎も、路線バスの一番前の席に座り、ストリップに通っていた田中小実昌ももういない。山崎方代の風狂も今はない。彼らは絶対的、普遍的と思われる価値観を無効化してくれていた。
浅草の”奥山風景”で江戸からの見世物の出し物、七尺の大イタチを再現していたことがあった。”七尺の大イタチ”とは血のようなものがついた大きな板の事である(大板血)。『お代は見てのお帰り』だが、「うめえこと考えやがったな」と皆が木戸銭を払っていく。怒るような野暮はいなかった。談志は自他共認める演芸マニアだが、残しておきたい演芸を集めた”夢の寄席”とういうCD全集をだしている。その一席目が寄席に戻ってきた柳家金語楼に、談志が頼んで演ってもらった”身投げ屋”だった。 がま口が落ちていないかと探している与太郎が、そんな事をするくらいなら両国橋で身投げのフリをしていれば、通りかかった人が「そのくらいの金で死ぬのはやめなさい」と持ち金を渡してくれるだろうと言われる。最初に来た身なりのいい男には「200円あれば」といい、次に来た酔っ払い風の男には「20銭もあれば」といういい噺だ。
もし今、与太郎がいて私の姿をみたならば、「500円もあれば」というだろうか。私は与太郎のファンである。それだけあれば、カップ酒が2本買える。とりあえず大川の辺に座って、一杯やろう。