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島田雅彦が『近頃、日本語の幼稚化にいっそう拍車がかかっている。ベストセラーのラインナップを見るにつけ、暗澹たる気分になる。みんな童話ではないか。分かりやすさの追求の結果が、このざまである。むろん、本を読まない若者ばかりを責められない。中年も老人も紋切り型の摩耗した日本語しか受けつけなくなっているのだ。どうやら、字は読めても、文章が読めない新しい文盲に出版の未来は握られてしまったらしい。』と書いたのは、もう20年近く前になる。
深夜遅くに、一杯やりながらテレビのチャンネルを変えていると”朝まで生テレビ”をやっていた。最近は観る事もほとんどなかったが、酷いものだった。30数年続くこの番組の変遷を観るだけでも、その間に日本語から何が失われていったかがよくわかる。政治の言葉も、報道の言葉も悪夢のようだ。
デカンショ(デカルト・カント・ショーペンハウエル)から、ロシア文学現代思想、異端と綺想、超現実と前衛、ヌーヴェルバーグとアンチ・ロマン、プログレッシブとパンク、ポストモダンニュー・アカデミズムといった内容の本はかってはよく読まれ、多くの人の本棚に並んでいたものだ。昔ながらの古本屋の棚は、読まれなくなったそれらの本の墓場になっている。そこでそれらは、かって触れた事のある人が入ってきて、遺品のように手にとってくれる事を待っているのだ。テレビで”東大生が選ぶランキング”のような番組を観ると、悪い冗談としか思えない。そこには、テリー・ギリアムの未来世界がある。