いき


パソコンというのは5年も経つと様々な不具合が起こる。検索をして対処法が出てくる症状なら良いが、どうにもならない未知の症状も多い。さらに使っているサイトが、古いOSには対応しなくなったりする。スマホではそのサイクルが3年だというから怖い。今は皆がいかに毎月課金させるシステムを作るかということだけに脳を使っている。そんなシステムに組み込まれるのも御免なので、作業以外では使うことをやめた。動きが遅くなるので、radikoを聴くこともなくなった。どちらにせよ、テレビのニュース番組よりもはるかに自由で真っ当な発言をしていたラジオのニュース番組が、なぜかここ数年で次々に終了してしまったのだ。この何ヶ月かは20数年位前に録り貯めた大量の演芸のカセットを聴き直している。
九鬼周造の”「いき」の構造”を読んだのはまだ若い頃でよく覚えてはいないが、文庫の説明文には「運命によって“諦め”を得た“媚態”が“意気地”の自由に生きるのが“いき”である」とある。色事ではひとつになれないことで”媚態”は続き、”諦め”があるからこそ自由がある。形にとらわれない関係性や美がある。古典落語もそういった”粋”で語られる事も多いが、今はどうも昭和の名人芸が耳にスーッと入ってこない。古典落語の演目は300位だというが、音源が残っているよく語られる噺はそれほど多くない。浪花節好きの小沢昭一が「忠君愛国や義理人情の話は嫌いで悪党が跋扈するような話がいいが、そういう演目は音源がなく演芸場でひっそり演られている」と語っているが、落語も同じ事なのだろう。落ち着かない日々が続く中では、また円丈やブラックの新作落語や、げんきいいぞうの歌を聴きたくなる。
こんな空気の時は新内よりも河内音頭なのだ。河内音頭は夏祭りで演っているところも多いので、YouTubeで多数観られる。聴いている音源は浪曲の広沢駒蔵のもので(この人は子供の頃から江州音頭の歌い手だったようだ)、元気がでる。河内音頭を聴いたのは1970年代頃の”ニューミュージックマガジン”で朝倉喬司の評論を読んだ事が大きい。昨年は朝倉喬司の没後10年で、『朝倉喬司芸能論集成:芸能の原郷 漂泊の幻郷』が出版された。定価は13,200円である。こういった出版文化を支えてきたのが図書館だ。しかし今では利用者数で購入する本を決めるようで、わざわざ図書館で手にする必要のないどこにでもある本が並ぶようになった。本をデーターベース化し、キーワード検索で一部を引っ張ってきてもあまり意味はない。手に取って開いてみる事が重要だが、見かけることも少なく、金額的にも手に入れることが難しい本は多い。発行部数の少ない出版物を守ることが、図書館の大きな役割だ。
そんなわけで、このところは小沢昭一の”日本の放浪芸”を聴いている。下町やその周辺を毎週のように歩いていたのは10数年前までだ。その頃はまだ見世物小屋があり、芸としての啖呵売も残っていた。しかしコロナばかりでなくその頃から既にもう、町から急速に自由が失われていっている。念仏踊りの”佃の盆踊り”は近年は盛況のようだが、復活された頃に行った時には何もないところで十数人が踊っているだけで、見物客もいなかった。気がつけば、いつのまにか消えているものは多く、復活させる事は難しい。コロナ後の世界では、変わらない縁日風景が続いているのだろうか。