猫語


世の中には観察眼の鋭い人は多いが、私は誰かを思い浮かべることがあっても、その人が何をしていたのか、どんな姿だったのかはほとんど思い出せない。人の姿形やその背景への関心が欠落しているのだろう。興味があるのは、その場の居心地が良かったかといった事だけなのだ。日がな一日、猫と居るようになって”猫の時間”にも慣れた。長時間眠り、しばらくの間まったりとくつろぎ、ちょっとケンカをして騒いだらまた寝る。ふと気づくと、いつのまにか私は猫語で話していたのだった。

風に吹かれて


『アメリカ最大の公共事業は戦争である』

内政がどうにもならない時、”戦争の危機”を煽るのはどこの国も同じだ。恐怖は従属と虚勢をうむ。一旦、精神の奴隷になれば、批判は権力には向かわず、同じ市民を監視し攻撃するようになる。自由という風向きが変わり、”自己責任の不健康”を異様に排除する風が吹き始めたのは90年代の終わり頃だったろうか。それは”お国の役に立たない”ものを排除する戦前戦時と変わらない。そして今歴史は繰り返し、”共謀罪”という風が退路をも絶ってしまうのだろうか。

抽象


フランシス・ベーコンの絵が深夜のテレビに映し出されていた。彼の絵には人間の本質があり、その眼差しが物語を紡ぎ出す。僕は子供の頃に観たホアン・ミロの絵が好きだった。世界をあんな風に観ていたかった。今、表現とはベーコンのような眼を持つことなのだろう。しかし僕は、何者でもない抽象でありたかったのだ。

FOREVER YOUNG


店を始めた頃、店を開ける前に近くの珈琲店でゆったりと一服するのが常だった。それから何年か経った頃だ。なんとなく居心地の悪さを感じ始めていたある日、珈琲店の客だったバイク乗りが「信号待ちの路上でくわえ煙草をしていた男の煙草をもぎとり踏み消した」と笑いながら語っていた。”規則は破るためにある”はずだったバイク乗りが、取り締まる側にいった。”規則をつくる側を監視”するのではなく、”市民が市民を監視”する暗黒の社会がくるのではないかと思ったが、それは急速に進んでいる。

宇宙


『宇宙とは進化するひとつの巨大な量子コンピューターである』

深夜に一杯やりながら、Eテレの「モーガン・フリーマン 時空を超えて」を時々観る。子供の頃に熱心に読んだ壮大なSF(Speculative Fiction)のようなさまざまな奇想を、現実にあると証明しようとする人たちが世界中にいる。人は迷走を続けているが、いつかその宗教観、世界観が大きく変わる『幼年期の終わり』は来るのだろうか。

ふざけるんじゃねえよ


桜は開花したが曇り空の寒い日が続いていて、テレビをつければ新しい道徳教育を押し進める人たちには道徳のかけらもない。何もかもがパッとしないと思える日、カーラジオから"頭脳警察"が流れてきた。

大道芸


人は解釈を求める。そこに意味と様式美があれば作家性が生まれる。”ギリヤーク尼ヶ崎”が求めるのはそんなものではなく、青春の捨て身のようなものだ。『意味不明・理解不能』の暗黒、投げ銭だけで生き続けてきて、路上に死んでいきたいという男の凄みがある。Eテレのドキュメンタリーで久しぶりにその姿を観たが、年老いてパーキンソン病になり体が動かなくとも、変わらない凄みが伝わってきた。