世の中には観察眼の鋭い人は多いが、私は誰かを思い浮かべることがあっても、その人が何をしていたのか、どんな姿だったのかはほとんど思い出せない。人の姿形やその背景への関心が欠落しているのだろう。興味があるのは、その場の居心地が良かったかといった事だけなのだ。日がな一日、猫と居るようになって”猫の時間”にも慣れた。長時間眠り、しばらくの間まったりとくつろぎ、ちょっとケンカをして騒いだらまた寝る。ふと気づくと、いつのまにか私は猫語で話していたのだった。
抽象
フランシス・ベーコンの絵が深夜のテレビに映し出されていた。彼の絵には人間の本質があり、その眼差しが物語を紡ぎ出す。僕は子供の頃に観たホアン・ミロの絵が好きだった。世界をあんな風に観ていたかった。今、表現とはベーコンのような眼を持つことなのだろう。しかし僕は、何者でもない抽象でありたかったのだ。
FOREVER YOUNG
店を始めた頃、店を開ける前に近くの珈琲店でゆったりと一服するのが常だった。それから何年か経った頃だ。なんとなく居心地の悪さを感じ始めていたある日、珈琲店の客だったバイク乗りが「信号待ちの路上でくわえ煙草をしていた男の煙草をもぎとり踏み消した」と笑いながら語っていた。”規則は破るためにある”はずだったバイク乗りが、取り締まる側にいった。”規則をつくる側を監視”するのではなく、”市民が市民を監視”する暗黒の社会がくるのではないかと思ったが、それは急速に進んでいる。
ふざけるんじゃねえよ
桜は開花したが曇り空の寒い日が続いていて、テレビをつければ新しい道徳教育を押し進める人たちには道徳のかけらもない。何もかもがパッとしないと思える日、カーラジオから"頭脳警察"が流れてきた。