昼寝


暑い午後、それでも窓からはいい風が入ってきて、昼におきたばかりなのだがとりあえず何もせずまた昼寝をしておこうという毎日だ。隣で長くなり欠伸をしている猫をぼんやりと眺めながら、とりとめのない事を考えている。散歩の途中、町の小さな公園のベンチで一服していた時の事だ。足元では数羽の鳩がのんびりと餌をついばんでいて、砂場の縁にはそれをみながら、まったく動かない猫がいた。のどかな光景だと眺めていると突然、猫が一羽の鳩を咥えて走り去って行った。もし野良として生きていたら、私にはそんな才能はとてもない。明け方に近い深夜に、コンビニに行こうと部屋をでると、驚くほどの数の野良猫の集会に出くわした事もあった。顔見知りの猫もいたが、会話を止めた猫たちの間を押し黙って通り抜けた。私があの中にいたとしたら、うまくやれる社会性があるとはとても思えない。もし私が野良として生きていたら・・・。たぶん誰かのおこぼれにあずかりながら放浪を続け、その果てにどこかで野垂れ死ぬのだろう。うつらうつらしながら、そんな事を思っていた。酔生夢死でいい、他に何があろう。

深夜の電車


缶ビールとカップ酒をチビチビ飲りながらの休日散歩の帰り、電車に乗るとぐっすり寝てしまった。しばらくして目をさますと、左肩の上には女性の頭が、右肩の上にはゴツイ男の頭がのっていた。”寄り添いながら眠っている猫たちとまったく変わらないなあ”と思いながら、またすぐにうつらうつら。降車駅に着き、”この人たちはどこで降りるのだろう”と、熟睡中の二人を起こさないようにそっと立ち上がった。行儀よく規則正しく息苦しい世の中だ。たまには、"終電も終わった終着駅で乗り過ごした二人が呆然と顔を見合わせる"なんて事があったっていいんじゃない。

シンギュラリティ


レイ・カーツワイルのいう”技術的特異点”は2030年代にも起こりうるとラジオで誰かが語っていた。コンピューターが人間の頭脳を超えてしまえば理解不能になり、理解するにはコンピューターと融合するしかない。それがポストヒューマンだ。肉体を捨てれば、いつか無限の星間航行さえ可能になる。大多数の人間は旧人類として存在することになるのだろうが、その時には今までの価値観はまったく無意味なものになってしまうのだろう。それはそれで、幸福なことなのかもしれない。地上ではもう一度、何もない道を歩き、路傍のどこにでもある花の傍らで酒を飲み、なんとなく空を見上げている。そんな何でもない事でいいのだと・・・。

大林宣彦


ATGの映画が好きで、新宿文化に行っていたのは10代の頃だ。製作費はないが熱量だけがあった白黒映画の時代だった。どこで上映されたのかは忘れてしまったが、大林宣彦の16ミリの作品を観たのも同じ頃だったと思う。その頃の僕は、ロジェ・バディムルイス・ブニュエルらの映像で果てしない迷宮へと誘なわれていた。大林宣彦の映画もそうだった。その後の彼の、初期の劇場用映画は映画館で観ている。今では”理想や幻想よりも現実を見ろ”という時代だ。しかし見えているというリアルには現実感がない。運転をしている車と同じように、人は見ている景色の方へと動いていく。今の若い人たちが見ている風景はどう変化していくのだろうか。

国のない男


『われわれはわれわれの兵士たちに対してもきわめて非人間的な扱いをした。宗教や人種のせいではなく社会的階層が低いという理由で。貧乏人はどこにでも送りこんでしまえ。どんないやなことでもやらせればいい。それが簡単でいい。オライリーの番組でもそう言っているはずだ。というわけで、わたしには国がない。』
『いまの若い人たちが気の毒で、かける言葉もない。精神的におかしい連中、つまり良心もなく、恥も情けも知らない連中が、政府や企業の金庫にあった金をすべて盗んで、自分たちのものにしている、それがいまの世の中だ。』
国のない男カート・ヴォネガットの言葉だ。(映像は”スローターハウス5”)