FAKE


町山智浩「FAKE」を語る
危険な純粋さ レヴィ

正義ほど怖いものはない。そして絶望的なことに、世界中のたいていの人間は自分を正しいと思っている。正義のための(言葉の)暴力があり、平和のための(正義の)戦争がある。この国にもJ-P0Pの歌詞のようなポピュリズムを煽る単純な言葉が溢れかえっている。その異和感を排除するには、逆の立場で物事を考えてみるしかない。ヘイトとはアイデンティティではなく、自己否定なのだ。

白い逃亡者


(映像は『ルポルタージュにっぽん ダービーの日 寺山修司』1978年)

初めて馬券を買ったのは1976年の天皇賞(秋)だった。まだ馬連もない頃で、アイフルとハーバーヤングの枠連を2000円買うと的中して11倍になった。その時大差の最下位だったのがホワイトフォンテンだ。芦毛の逃げ馬で、「白い逃亡者」と呼ばれて人気があった。父の名は”ノーアリバイ”、寺山修司は「アリバイを持たない者は逃げ続けるしかない」と書いた。まだ馬券を買うこともなかった頃だが、テレビの中継で応援しているとまったくの人気薄で逃げ切り、大穴をあけていた。ホワイトフォンテンをみると、中学校の頃の同級生を思い出した。通学路の途中にある時計屋の息子で、店の前に座って丸太を削り仏像を彫っている姿をよくみかけた。彼は芦毛のような白子だったのだ。ひとり暮らしを始めた後に実家に顔をだした時に、一度偶然出会ったことがある。その時には「ヒッピーになり、(どこかの)島でコミューン造りをしている」と話していた。それから十数年も経ち、たまたま国分寺にあるそういった関係の店で飲んだ時のことだ。「あちこちに不義理をし、行方知れずだ」という同級生の噂を聞いた。芦毛の馬をみるとふと思う時がある。彼は安息の場所へと逃げ切ることができたのだろうか。

BLOW-UP


radikoをつけて仕事を始めると、「3時からの伊集院光の週末TSUTAYAに行ってこれ借りようのゲストは浅井慎平さんです」と聴こえてきた。浅井慎平だったらきっと、アントニオーニ「欲望」を選ぶんじゃないかなと思った。人の感覚はいくつになっても、そんなに変わらない。僕は子供の頃から物語を読んだり、観ることは好きだったが、やがてくる結末は嫌いだった。メタノヴェル、アンチミステリ、出口のない果てしない迷宮の扉を開きたいと、いつも夢想していたのだ。

 

生活の柄


携帯電話などなく、固定電話を引くことなんてとてもできない頃だ。僕はろくに仕事もしていなかったけれど、目的もなくただ歩いていたりして留守にしていることが多かった。店をやめた時、捨てたものの中に古い手紙の束があった。その中にはさまれていた置き手紙のひとつにふと目がいった。そこには「顔をみたくなって訪ねてみましたが留守でした。帰ろうと思っていると、隣の方が『中で待っていれば』と鍵を開けてくれました。遅くなってしまったので帰ります。冷蔵庫に差し入れがあるので食べてください」というような事が書いてあった。猫が出入りしていた頃は台所の窓を開けておいたが、そうでない時も窓の鍵をかけていない事が多かった。そこから手を伸ばせば、ドアの内側のノブに手が届くのだ。盗まれて困るようなものは何も持っていないし、その事を知っていれば誰でも部屋に入る事ができた。それにしても深夜に麻雀を打っていて怒鳴り込まれたりした事もあったが、たまに顔をあわす事があれば立ち話をした程度の知り合いだった隣の住人が「鍵を開けてくれた」なんて、のんびりとしていたな。そして僕は、冷蔵庫に入っていた食料でまた何日か生き延びる事ができたのだ。

ハリーとトント


この映画を観たのは20代前半の頃だ。居場所をなくした老人が猫と旅をする。その時、こんな風に生きられればそれでいいじゃないかと思った。店もないような淋しい町で一人暮らしをしていた頃の事だ。駅からの帰り道、ふと振り返ると白い猫がついてくる。その頃の僕はその日暮らしができれば良かったし、他の何ものかに興味もなかった。なのに部屋のドアを開けると、いつのまにかついてきた猫がするりと中に入った。酔って眠ると、隣で猫も寝ていた。翌日朝が来て「じゃあな」と別れたが、帰るとドアの前で待っていた。ここで眠りたいのなら勝手にすればいいと、ドアの横にある台所の窓を開けておく事にした。そんなある日、アパートの1階に住んでいる大家の婆さんから声をかけられた。僕の部屋に出入りをしている猫が、大家の飼っている猫とケンカをして怪我をさせたというのだ。餌やトイレの世話をした事もなく猫はただ勝手にいただけなのだが、動物の飼育は禁止でこのままではアパートを出て行ってもらうと、その前まではいつも優しく声をかけてくれていた大家が言った。仕方なく、部屋にいた猫を出会った場所まで連れて行く事にして外に出た。歩き出すと猫は後ろをついてきた。初めて会った場所で、「じゃあ」と折り返した。すると、とぼとぼと歩いている僕の後ろを同じようにとぼとぼとついてくる。そこでもう一度駅の方に向かって歩いた。そんな事を何度も繰り返して振り返ると、佇んでずっと僕を見ているあいつがいた。何度も何度も振り返って、泣いた。あいつとは「ハリーとトント」のように旅ができた。今でもそう思う。

東京センチメンタル


絵葉書のように切り取られた映像では、下町はノスタルジアとセンチメンタルの中にある。遠い記憶の光景に重なるのだが、もうたどりつけない場所だ。神谷バーにいつもいた不良爺婆、師匠、ご隠居、姐さんたちはまだ元気で生きているのだろうか。あの場所ではいくつになっても、若造のままだなあ。

フルクサス


フルクサスといえば、清里現代美術館だ。訪れたのはもう20年も前になる。個人美術館で、書籍や雑誌、ポスター、レコードなどまで丹念に蒐集されていて居心地の良い場所だった。物理的な移動に興味を失って10数年にもなるので再訪はできなかったが、ふと気になり検索をしてみると 1年半前に閉館をしていた。多様な価値観を受け入れる事ができたあの時代の空気は忘れられたのだろうが、この不自由で不寛容な時代にこそあの時の風が吹いて欲しい。