俗曲


私たちが自由意思で選んでいると思っている趣味嗜好は、社会階級や文化資本によって選択をさせられている。”100分de名著”でブルデューの”ディスタンクシオン”をやっていた。小説や音楽や絵画といった文化との出会いに天の啓示のようなものはなく、社会構造によって決定されている。そして機会を平等にするためのはずだった教育が人を分類し、格差を固定させる機関になってしまった。人は居心地のいい場所にいて、見たいものしか見ない。メインカルチャーがあるからサブカルチャーがある。それぞれがそれぞれを知るしかない。三社祭だったか、三島由紀夫が初めて神輿をかついだ時のうれしそうな顔の写真が忘れられない。人は知る事で自由になれる。
今年放映された日本賞2020のフィンランドの作品を観た。モレンビークの難民が暮らす地区の6歳児、イスラム教徒とキリスト教徒の男の子、無神論の女の子のドキュメンタリーだった。彼らは無邪気にはしゃぎながら、時に「アラーは神で、キリストはただの預言者だよ」「戒律に意味はあるの」「神なんていないわ」といった会話をかわしながら共生していた。世界は種分けと文化的再生産が繰り返されているが、それこそが権力や富を持つものに都合のいいシステムだからだ。今では自然も、芸術も使い捨ての投資だ。ETVで文化人類学者のデヴィッド・グレーバーの”クソどうでもいい仕事の理論”が紹介されていた。広告やコンサルタントなど、今ある仕事のほとんどはクソどうでもいい仕事で、人が生きていくために必要不可欠な仕事は最底辺に貶められている。
NHKのドキュメンタリーで、シベリアの凍土が溶け始め、二酸化炭素の25倍の濃度のメタンガスが噴出ている映像や、発見された未知のウイルスの画像は何度か観ている。このまま何もしなければ、すべての氷河や凍土が消え制御不能になるまでの猶予期間はあと10年だ。今飢餓にある8億の人、そしてやがて100億にもなるすべての人がこれ以上地球に負荷をかけずに食べていける試算では、先進国の肉の消費量を80パーセント減らさなければならない(週に豚肉80グラム程度)。地下水は枯竭しはじめ、世界には手を洗い喉を潤す水さえ充分でない人たちがいるが、私たちが1枚のジーンズを履き、100グラムの牛肉を食べるためには何トンもの水が使われている。
10代の頃に読んだ水上勉の”土を喰う日々”に戻るだけだ。じゃがいもを茹で、冷奴におひたしに大根おろし、今とそう変わるわけでもない。大道芸人をしているYがマスク姿で現れ、玄関前に本の入った数個の段ボールを置くと風のように去っていった。ありがとうございます。イベントなどはすべて中止で大変な状況が続いている事と思いますが、死なない程度に生きていきましょう。もう春だ。今日はうめ吉の俗曲でも聴きながら、日本酒をチビリチビリとやることにしよう。