舞踏


店を移転してしばらく経った頃だったろうか。暗黒舞踏の”大駱駝艦”などのポスターを持ってきたお客がいた。大駱駝艦の稽古場は吉祥寺にあり、中央線の中野~三鷹間にはまだ多くの古本屋がある。「どうしてこの町まで」と聞いてみた。店を始めたばかりの頃を思い出していたのだ。その頃よく来ていたお客がある日、「仕事を辞めて演劇か舞踏をやりたい」と話してきた。彼はその夏の大駱駝艦の合宿に参加し、その後入団をする事に決めたのだった。それからは公演があるとポスターとチラシを持って店に現れたので、定休日と重なった時には差し入れの日本酒”天狗舞”を持って観に出かけた。
そんなことがあったので、大駱駝艦にいるというお客にきいてみたのだが、何も知らないようだった。ポスターやチラシは希少で高価なものもあるのだが、元は宣伝のために配られるものであり、使われなかった残存数もわからないので扱いにくい品である。他の店で断られたのかもしれないが、交通費を使ってわざわざ来てくれたのに、二束三文で帰すわけにもいかない。売れそうな品もそれなりにあったので、最悪赤字にはならない程度の、彼も少しは一息つけそうな値段で買い取る事にした。
観に行っていた頃の大駱駝艦は全盛期だった。それ以前には、土方巽は西武劇場で『静かな家』を観た。衝撃だった。のちに土方巽の語りを収録したCDが発売される事になった時にはどうしても店で扱いたくなり、「卸値で売ってくれませんか」とアスベスト館を訪れた事もあった。”天使論”を書いた笠井叡は、無料のワークショップのようなところで観たが、その踊りは華麗だった。”言葉の洪水”だった芥正彦の街頭演劇は歩行者天国に観にでかけた。
あらゆるジャンルは興隆すればやがて縮小再生産され、衰退をする。1997年に”万有引力”月蝕歌劇団など他の劇団と公演した大野外劇『100年気球メトロポリス』はあの時代の空気が消える最後の打ち上げ花火のようだっだ。しかしまた新しい表現(エロス)が生まれるだろう。<戦争>の対極にあるものが、フロイトバタイユのいう<エロス>だ。自由な表現が衰退すれば、異質なものはすべて病気か犯罪に分類されていく。今見えている光景は、土方巽の『不具こそ正常』とは真逆である。表現の抑圧は、”見えない監獄”をどこまでも強固にしていくばかりだ。