ケータイ


ケータイは持っている。家人が仕事で必要ということで販売店に行くと、『家族割がお得』と言われて私の分も購入してきたのだ。しかし店の営業時間中はずっと電話の前にいるので、まったく使う必要がない。その内に街から公衆電話が消えて、お客からの依頼で自宅へ伺う時だけはケータイを持つようになった。以前、カメラ散歩をしていた時期があった。地層の形状など細部ばかりに眼がいき、歩くこと自体が楽しめなくなって持つことをやめた。今ではスマホがカメラだ。それは電話であり、切符であり、貨幣であり、さまざまな情報も詰まっている。カメラでさえ持てないのに、そんな失くしてはいけないようなものを持ち歩く事はできない。何しろ財布や時計も持った事がないのだ。小銭とワンカップだけをバッグに入れ、他は何も持たずに自由にただフラフラしていたい。格差は広がるばかりだが、階級闘争はもう起こらない。人はシステムの奴隷になり、その意味さえ気付かなくなっていく。規範の壊れた新自由主義にあるのは捏造された構造ばかりだ。脱構築とは漂白である。
カーラジオから気分の良い曲が流れている。お客から連絡があり、バッグにケータイを入れ車で青梅に向かっていた。その翌日の事だ。バッグに入れっぱなしになっていたケータイを取り出し、用のある時には電池切れになっているのでいつものように電源を切ろうとした。すると『着信アリ』となっている。この電話番号を知る人はほぼいない。なんだろうかと見ると、どこか見覚えのある番号だった。しばらくして気づいた。それはもう使われていない店の電話番号だったのだ。どうしてそんな事が起きたかはわからない。単純な事なのかもしれないが、謎は謎のままにしておく事にした。あの電話番号の向こうのもう一つの世界では、私はまだ古本屋を続けているのだろう。そしてその机の上にはきっと、店を始めた頃に使っていたダイヤル式の黒い電話が今もあるに違いないのだ。