巴里祭


巴里祭

店を始めた頃からのお客だったIさんの事はよく覚えている。平日の昼間にフラリと顔をだし、いかにも自由な趣味人という雰囲気を漂わせていた。数駅先の町に住み、ライターをしていると話していた。何年か経った頃に、「これ、今度だした本」と見せてくれたのは、忘れられた女剣劇のスターを取材した分厚い大著だった。表紙の写真もよく、私も割引で買う事にした。Iさんは毎年「巴里祭」という催しをしていて、店の休みと重なった年に一度訪れた事がある。シャンソン歌手や講談師などの舞台を観ながらワインをかたむけるという、何とも妖しく優雅な催しだった。Iさんが、やはりその頃店に来ていたお客の母娘と一緒にいる所を見かけた事があった。その娘は高校で演劇部の部長をしていて、はっきりした物言いでいつも元気がよくキラキラして見えたものだ。それから何年も経ち、「またこの町に戻ってきちゃった」と顔を出した彼女には、もうあの頃のキラキラとした感じは失くなっていた。そしてその日、「Iさん、亡くなったんですよ」と話し始めたのだ。「母とIさんは長く付き合っていて、自由気ままに生きてきたIさんにはお金の事でずいぶんと苦労させられた」という事も初めて知った。子どもを連れた彼女の姿と、苦労してきたという彼女の母の姿が重なって見えた。母がIさんの本を売りに来たのもその頃だったと思う。それからまた長い時が過ぎ、店を移転して数年も経った頃の事だ。長い間顔を見る事もなかった母が店に現れた。彼女は棚に一冊だけ残っていたIさんの本と代金をレジに置くと、「これ、やっぱりいい本だよね」と言った。「いい本だと思いますよ」と、私は店を出て行く彼女の後ろ姿を見送った。店のミニコンポからは、その頃よく聴いていたジェーン・バーキンの「手切れ」が流れていた。