白い逃亡者


(映像は『ルポルタージュにっぽん ダービーの日 寺山修司』1978年)

初めて馬券を買ったのは1976年の天皇賞(秋)だった。まだ馬連もない頃で、アイフルとハーバーヤングの枠連を2000円買うと的中して11倍になった。その時大差の最下位だったのがホワイトフォンテンだ。芦毛の逃げ馬で、「白い逃亡者」と呼ばれて人気があった。父の名は”ノーアリバイ”、寺山修司は「アリバイを持たない者は逃げ続けるしかない」と書いた。まだ馬券を買うこともなかった頃だが、テレビの中継で応援しているとまったくの人気薄で逃げ切り、大穴をあけていた。ホワイトフォンテンをみると、中学校の頃の同級生を思い出した。通学路の途中にある時計屋の息子で、店の前に座って丸太を削り仏像を彫っている姿をよくみかけた。彼は芦毛のような白子だったのだ。ひとり暮らしを始めた後に実家に顔をだした時に、一度偶然出会ったことがある。その時には「ヒッピーになり、(どこかの)島でコミューン造りをしている」と話していた。それから十数年も経ち、たまたま国分寺にあるそういった関係の店で飲んだ時のことだ。「あちこちに不義理をし、行方知れずだ」という同級生の噂を聞いた。芦毛の馬をみるとふと思う時がある。彼は安息の場所へと逃げ切ることができたのだろうか。