落語


(円丈 横松和平)

店の売り上げも順調だった頃だ。有線放送の営業が訪ねてきた。その頃はただ本の整理に追われていて、CDを入れ替えるのも面倒なので契約をしてみた。しかし400チャンネルもあるのに、どのジャンルでも自分の聴きたい音楽が流れてくることがない。そんなある日、落語チャンネルをつけてみると”演芸かわら版”という番組に出会ったのだ。週替わりの2時間番組なので、一週間再放送をしているのだが、他の時間は古典落語などがずっと流れているので、結局それからの数年間は毎日、店にいる間中落語チャンネルを聴いていた。数年間というのは”演芸かわら版”が終了することになり、同時に有線放送を解約したあとは落語とも疎遠になってしまったからだ。文芸座に円丈の実験落語を聴きに行ったりしたこともあったが、特にハマるということはなかった。しかしその数年間は、毎週のように登場する新しい噺家を知り、講談、物売りや見世物の口上などの他の話芸を知ることも愉しみになった。小沢昭一の”日本の放浪芸”を聴いたのもその頃だった。店にそんなBGMが流れているので、演芸好きのお客が録音した音源を持ってきてくれたりもしたのだ。”演芸かわら版”で知った新作落語の中で、円丈の”横松和平”と喬太郎の”すみれ荘201号”は番組を録音していたので、何度も聴いた。まだ物が売れていた時代、毎日大量に持ち込まれる本や雑誌などの山に埋もれて疲れた僕は、何もない部屋で暮らし、ただ酒ばかり飲んでいた日々を懐かしく思い出していたのだった。


(喬太郎 すみれ荘201号)

ゾンビ


『われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳にすぎない』 ラ・ロシュフコー

ロメロゾンビ映画を観たのは新宿伊勢丹の交差点近くにあった映画館だった。それまでのゾンビ映画は、南の島に行った白人の前にブードゥー教の呪術で蘇った死者が現れ…という第三世界に対する侮蔑映画だ。ポスターに惹かれて入った映画館で観たロメロの映画は違った。痛快だった。人間は欲望のままに、考えらないようなとんでもないことをしでかしてしまう存在であり、虐げられたものたちの終わりなき大逆襲が始まったように思えた。いつかゾンビが世界を覆い尽くした時、人はようやく安息の土に還ることができるのだろう。

深夜放送


決まった時間に店を開けるといった事がなくなり、夜型の生活はひどくなるばかりだ。新聞や週刊誌を持ってまた布団に行き、いつのまにかの二度寝ほど楽しいものはない。作業は夜やればいい事だが、これ以上ひどくなれば郵便局の営業時間に間に合わないという事にもなりかねない。10代の頃のラジオの深夜放送を聴いていた頃から何も変わらないのだ。
中島みゆきオールナイトニッポン月イチが最終回というので、調べてみると16日の日曜の27:00~29:00とある。そうそう、27:00だ。日曜の深夜であって、断じて月曜の午前なんかじゃない。しかもちゃんと生放送だ。眠れないままに29:00を過ぎて日常の朝に戻され、焦っていた頃を思い出した。トランジスタラジオと本を持って深夜の散歩をしていた頃、五木寛之が『歌いながら夜を往け』と言っていた頃を。中島みゆきTARAKOのような話し方、変わらないなあ。今の深夜は日本酒でいい気分になり、NHK映像散歩などをぼんやり眺めていたりしてるので、申し訳ないけどタイムフリーで聴きました。ごめん、同じ時間を共有できるのがラジオなんだけどね。

邪宗門


寺山修司の映画や演劇を観たのは十代の頃だった。文化とは例外(異端)を生み出すための装置である。
生物が生存していくには多様性が必要だ。働く蟻や闘う蟻だけしかいない社会は絶滅する。働かない蟻にも意味がある。新人類の中で、他よりも弱点の多いホモ・サピエンスだけが生き延びる事ができたのは、それを補うための相互扶助を知ったからだった。そして人間社会は成立したが、しかし今はその人口はすぐにも100億になり、大量のエネルギー消費が必要な未曾有の事態だ。神話から未来永劫続くという国家観は、その時代の為政者に都合よく書き換えられる。国家(政権)とは生まれては消える存在なのだ。愛国心は政権に対する忠誠ではなく、生きている土地を愛する事である。多様性のない社会、利益誘導と同調圧力の社会はまたいつかと同じ破滅の道へと向かうだろう。
時の政権が民衆を啓蒙する宗教を弾圧したのが「邪宗門」だ。世の中がなんだか息苦しく思える日、CDで寺山修司の演劇”邪宗門”のラストシーンを聴くと元気がでた。人は欲望の奴隷にならず、いつか弾圧と迫害から解放されるのだと。

ケ・サラ


直射日光の中をビールを飲みながら歩いていると脱水症状になる。暑さを逃れて木陰へと行けば蚊やダニに襲われる。夏が好きな人はエアコンの効いた部屋で、白い砂浜の画像を見ながら夏らしい音楽を聴き、冷たいカクテルでも楽しんでいるのだろう。75億人のすべてが快適な暮らしができればよいが、その時はエネルギー消費の加速度的な増大による環境悪化でドームの中での生活という事になるのだろうか。
夏の真夜中には風が吹き、冬の真夜中は北風もやむ優しい日がもどってほしい。エアコンの効いた場所ではなく、ワンカップを片手にただ歩いていたいのだ。暑い部屋で憂歌団を聴いていた。彼らのライブには3回行ったことがあるが、木村くんは大阪の公園と酒がよく似合う。あんなにうまそうには飲めないけれど、月明かりに照らされた公園のベンチで飲みながら、終末はゆっくりと静かに訪れてほしい。あと一杯だけ、などと言いながら。どうなる?どうにかなる!

生きる


この国が死の意味を国家から個人に取り戻したのは70年前だ。そこに必要なものは認識と記憶だが、時代は逆行しもはや他の何かになる想像力も希薄になってきた。帰属意識を持たなければ排除をされるという恐怖心がこの社会を支配している。そして集団から個人へと取り戻したはずの死もまた理不尽に訪れるのだ。
梅雨空の夕暮れ時、机の前で作業をしていると電話が鳴った。また営業だろうと面倒に思いながら受話器をとると、「⚪︎⚪︎ですが…」と女性の声がした。「あー、久しぶりですねー」と能天気な声を出した私に、彼女は静かな声で「だんなが死んだんですよ」と続けたのだった。アニメーターのKくんは、店を始めた頃に特殊な背景を描く資料を探しに来て話したのが最初だったので、もう随分と長い付き合いになる。ひと月くらい前の明け方に、仕事部屋のアパートで締め切りの原稿を書き終えた後、カップラーメンの用意をしていた時に倒れたらしく、原稿を取りに来た制作会社の方がみつけたのだけれど、すでに…と話す奥さんの声を聞きながら、私は『働くしかない。死ねないなあ』と言っていたKくんを思い出していた。まだ50代だし、大変な事情も知っているので返す言葉もなかった。とにかくタフで、徹夜明けで店に顔をだしても、『一週間ぶりの帰宅だ』『このあと、用事で田舎にいく』といったことがよくあった。一ヶ月がたち、少し落ち着いたらしい奥さんの昔の話に、私には「なんとか、がんばりましょう」という言葉しかなかった。

不滅の男


去年の暮れの事だ。夜明けも近く、そろそろ寝ようかとテレビのチャンネルを変えていると、スタジオライブの番組をやっていた。番組欄を見ると遠藤賢司の名前があったので、日本酒を継ぎ足しに行った。
時代の空気が変わったと思える年がある。1995年は阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件があり、そこから暗く重たい空気が流れ始めた。1968年は逆にアヴァンギャルドで自由な空気を感じた年だ。その頃のテレビに、当時流行した「アングラ文化」を紹介する番組があった。その番組で天井桟敷の「時代はサーカスの象にのって」という演劇を映した回があり、その舞台でギターを弾きながら「夜汽車のブルース」を歌っていたのが遠藤賢司を観た最初だったと思う。
いつの時も、好きな本や映画や音楽や美術などはあるが、特に何かにはまるという事もなく通り過ぎていく。しかし、元気が欲しいと思える酔った夜に、時々遠藤賢司ニール・ヤングを聴きたくなるのはあの頃も今も変わらない。去年のラジオ番組で、結局最後になってしまった次のライブの話をしていた時だったろうか。これからやりたい事はと聞かれた彼は、「ニール・ヤングと同じステージにたつ」と語っていた。
もう何年も、大日本帝国への回帰のような嫌な風が吹いている。明治から大正デモクラシーエログロナンセンスの時代になったように風向きが変わって欲しいと思いながら、遠藤賢司を聴いている。