愛の唄


どうしても思い出せない事柄があり、そういえば以前に”旧おすすめ動画”に載せたことがあったと数年ぶりに開いてみると、もう観ることができなくなっていた。動画の貼り付けができなくなってこちらのサイトに移転したので、貼り付けがあるブログは閲覧不能になったのだろう。入院したKの気晴らしのために始めた”旧おすすめ動画”だが、ほぼ毎日のように更新をしていた。その事がなければ、YouTubeをあんなに観る事もなかっただろう。思いつくままの単語を(海外のものは原語に戻し)ファイルに溜めておき、時間が空いた時に検索をしてみた。するとジャン・ジュネマン・レイといった映像作品からその関連動画へと、今まで本の中だけの知識で実際には観る事ができないと思っていた映像が次々と現れた。それもまた忘却の彼方だ。検索した言葉ももう覚えていない。いつか消えてゆく個人の歴史は忘却と空想の愉悦の中にある。あの頃の数年ももう幻のようだ。しかし国家の歴史は検証され続けなければならない。そして表現の歴史も同じだ。社会と戦いたいわけじゃない。戦うべきは社会の常識なのだ。

四人囃子


“たまら・び”最新号の特集、”蒐集家ものがたり”の中のイメージカットに店の写真が使われていた。はやいもので、店をやめてもうすぐ3年になる。高価なものから家賃に変わっていったので、あれから延々と均一本の整理を続けている感じだ。店のお客だったとういう方から何冊かの注文があった。送金の連絡に、「少し余計に振り込みをしたので、それで一杯やってください」というメッセージが添えられていた。お礼の連絡とともに評価を入れると、ずいぶんと昔の履歴が一点あった。そのレコードのことはよく覚えている。ネットにはまだそれほど大量の商品が氾濫しておらず、それなりの値段で売れていた頃の事だ。梱包の厄介なレコードだが、「近くなので取りに行きます」という連絡があった。そうか、あの時からのお客だったのか。ありがとうございます。酒は今でも毎日チビチビと飲んでおりますが、たまには昔のように酔いつぶれたい気分です。

渚にて


テレビをつけると女性代議士のどうでもいいような問題がまた垂れ流されていた。そして今日は、同じ方向を向いているこの国の総理と都知事の顔が画面に映し出されていて気分が悪くなる。しかし、NHKスペシャルが取材した「沖縄と核」のような問題が報道番組で語られる事はまずない。キューバ危機の頃、沖縄には地球全体を破壊できるほどの1300発もの核弾頭が持ち込まれていた。核弾頭はミサイルに装着され、いつでも発射できる臨戦態勢になっていたが、点検中のミサイルが水平に誤発射され、那覇の沖合に落下した事があった。幸いにも不発だったので、ミサイルは極秘に回収されたのだ。当時の米兵の証言では、核戦争は必ず起こると皆が感じていた。もし誤発射に他の国の反撃があり、核弾頭の保管庫に着弾するような事があれば、沖縄は世界地図から消えていただろう。この国には多数の原発があり、サリン事件のようなテロもあり、自然災害は毎年のように起こっている。危機のない時代などあった事はないのだ。あからさまに危機を煽るのはいつの時代もどの国でも、為政者の保身と欲望にすぎない。人はさまざまな社会制度や宗教など、生存のためのシステムを創りだしたが、その歴史は虐殺と繁栄の繰り返しだ。資本主義も共産主義も幻想だった。今、人は貨幣の奴隷になり、そのあげくにこの地球上には8億もの飢えた人がいる。生きる意味を思考し続けて尚、人は自滅していく生物なのだろう。人は満たされても幸福ではなく、満たされなければ暴発する。栗本慎一郎さん、私はもうとっととパンツを脱いじゃいましたけど・・・。それが、何か・・・?

生活の柄 2


集団行動が苦手だった。子供の僕は子供が嫌いで、幼稚園にいく事ができない。小学生になっても机の前でジッとしていることが苦痛だった。それは高学年になるにつれ段々と薄れていったが、そこが居心地が悪い場所であるという事に変わりはなかった。学校の図書室や町の図書館、駅前の貸本屋などで本を開いている時間が幸福だった。それ以外に欲しいものもない。組織の中でバリバリとやっていく姿など想像もつかなかったし、職人や農業には憧れるが、コツコツとずっと続けていけるとも思えなかった。しかし無理をして頑張らなくても、居心地の良い場所を探し続け、その事にさえ労を惜しまなければ、それなりに愉しく生きていく事はできる。もうすぐ熱燗がうまく、活字を読むにもいい季節になる。若かった頃の若者向け雑誌にはやがてくる世界の終末や、神秘主義やオカルティズムの特集が何度も組まれていて、さまざまな奇想を広げていく事ができた。ナチズムのような全体主義はその中にある不安と陶酔、狂熱を利用する。いつの時代も同じだ。 世界の終末とは、個人が全体になる思考停止の感情に満ちた世界の姿だ。

どうにかなるさ 2


日時を調節して誰かと飲みに行くというのも何かと億劫だ。第一、飲みたいのはいつかではなく今なのだ。フラリと顔を出せば顔見知りがいる、行きつけの飲み屋もなくなった。店をやめ散歩が愉しい季節になれば、缶ビールでも持って訪ねたいと思っていた知り合いの店も今はもうない。店をやっていた頃、缶ビールやカップ酒を飲みながら馬鹿話をし、ほろ酔いで町へ消えていくお客がうらやましかった。自由で金もかからない。いい店だったな(笑)。皆が”どうにかなるさ”と・・・

LIVING WITH WAR


世界はヤンキー化しているが、知性に勝る経験値を持つ人がいるとはとても思えない。この国の野党をみれば、民進党など一刻もはやく消滅してほしいとさえ思うが、鳩山由紀夫の言ってきた事は間違ってはいなかった。石橋湛山の「小日本主義」「日中米ソ平和同盟」に通じるが、それにしても「対米従属からの脱却」と言うと、この国では見事に潰されてしまう。政治家は「大日本」へと向かい、個よりも「全体主義」という若い人が増えている。ニール・ヤングが「音楽で世界を変えることができた時代は過ぎ去った」と語ったのは10年前だった。



文学青年


平日の昼間の店には、健康の問題や職場の都合で仕事をやめたお客もけっこういた。時間潰しには丁度よかったのだろう。そしてそういう職場は決まって保険や年金などの社会保障がまったくないのだ。「で、これからどうするんですか」と聞くと、皆が「まあ、なんとかなるでしょう」と達観したような顔をしている。考えてみれば、休むことなく働いたあげくに借金などつくってしまっている自営業者たちに比べればよほどマシだと思っているに違いない。永遠の文学青年といった風情のAさんもそうだった。文学青年といっても私と同じくらいの年齢なのだが、どこか浮世離れをしている。Aさんは将来住むところがないのは困るので、中古マンションを買ったといった。調べてみると、確かに2~300万程度で買えるような物件だってあるようだし、買っても当面は大丈夫という貯蓄がある事もすごいが、それにしたってそんな風に使っていて、「で、これからどうするんですか」とついまた聞いてしまった。「同人誌仲間に売れている女流作家がいるので、一緒に暮らさないかな」と言いながら、私の知らない郷土の作家の話などをまた淡々と続けるのだった。人生なんて、何が起きるかわからない。Aさんを見習って、とりあえずは好きな作家の本でも読む事にした。