平日の昼間の店には、健康の問題や職場の都合で仕事をやめたお客もけっこういた。時間潰しには丁度よかったのだろう。そしてそういう職場は決まって保険や年金などの社会保障がまったくないのだ。「で、これからどうするんですか」と聞くと、皆が「まあ、なんとかなるでしょう」と達観したような顔をしている。考えてみれば、休むことなく働いたあげくに借金などつくってしまっている自営業者たちに比べればよほどマシだと思っているに違いない。永遠の文学青年といった風情のAさんもそうだった。文学青年といっても私と同じくらいの年齢なのだが、どこか浮世離れをしている。Aさんは将来住むところがないのは困るので、中古マンションを買ったといった。調べてみると、確かに2~300万程度で買えるような物件だってあるようだし、買っても当面は大丈夫という貯蓄がある事もすごいが、それにしたってそんな風に使っていて、「で、これからどうするんですか」とついまた聞いてしまった。「同人誌仲間に売れている女流作家がいるので、一緒に暮らさないかな」と言いながら、私の知らない郷土の作家の話などをまた淡々と続けるのだった。人生なんて、何が起きるかわからない。Aさんを見習って、とりあえずは好きな作家の本でも読む事にした。
昼寝
暑い午後、それでも窓からはいい風が入ってきて、昼におきたばかりなのだがとりあえず何もせずまた昼寝をしておこうという毎日だ。隣で長くなり欠伸をしている猫をぼんやりと眺めながら、とりとめのない事を考えている。散歩の途中、町の小さな公園のベンチで一服していた時の事だ。足元では数羽の鳩がのんびりと餌をついばんでいて、砂場の縁にはそれをみながら、まったく動かない猫がいた。のどかな光景だと眺めていると突然、猫が一羽の鳩を咥えて走り去って行った。もし野良として生きていたら、私にはそんな才能はとてもない。明け方に近い深夜に、コンビニに行こうと部屋をでると、驚くほどの数の野良猫の集会に出くわした事もあった。顔見知りの猫もいたが、会話を止めた猫たちの間を押し黙って通り抜けた。私があの中にいたとしたら、うまくやれる社会性があるとはとても思えない。もし私が野良として生きていたら・・・。たぶん誰かのおこぼれにあずかりながら放浪を続け、その果てにどこかで野垂れ死ぬのだろう。うつらうつらしながら、そんな事を思っていた。酔生夢死でいい、他に何があろう。
大林宣彦
ATGの映画が好きで、新宿文化に行っていたのは10代の頃だ。製作費はないが熱量だけがあった白黒映画の時代だった。どこで上映されたのかは忘れてしまったが、大林宣彦の16ミリの作品を観たのも同じ頃だったと思う。その頃の僕は、ロジェ・バディムやルイス・ブニュエルらの映像で果てしない迷宮へと誘なわれていた。大林宣彦の映画もそうだった。その後の彼の、初期の劇場用映画は映画館で観ている。今では”理想や幻想よりも現実を見ろ”という時代だ。しかし見えているというリアルには現実感がない。運転をしている車と同じように、人は見ている景色の方へと動いていく。今の若い人たちが見ている風景はどう変化していくのだろうか。
国のない男
『われわれはわれわれの兵士たちに対してもきわめて非人間的な扱いをした。宗教や人種のせいではなく社会的階層が低いという理由で。貧乏人はどこにでも送りこんでしまえ。どんないやなことでもやらせればいい。それが簡単でいい。オライリーの番組でもそう言っているはずだ。というわけで、わたしには国がない。』
『いまの若い人たちが気の毒で、かける言葉もない。精神的におかしい連中、つまり良心もなく、恥も情けも知らない連中が、政府や企業の金庫にあった金をすべて盗んで、自分たちのものにしている、それがいまの世の中だ。』
“国のない男”カート・ヴォネガットの言葉だ。(映像は”スローターハウス5”)