シンギュラリティ


レイ・カーツワイルのいう”技術的特異点”は2030年代にも起こりうるとラジオで誰かが語っていた。コンピューターが人間の頭脳を超えてしまえば理解不能になり、理解するにはコンピューターと融合するしかない。それがポストヒューマンだ。肉体を捨てれば、いつか無限の星間航行さえ可能になる。大多数の人間は旧人類として存在することになるのだろうが、その時には今までの価値観はまったく無意味なものになってしまうのだろう。それはそれで、幸福なことなのかもしれない。地上ではもう一度、何もない道を歩き、路傍のどこにでもある花の傍らで酒を飲み、なんとなく空を見上げている。そんな何でもない事でいいのだと・・・。

大林宣彦


ATGの映画が好きで、新宿文化に行っていたのは10代の頃だ。製作費はないが熱量だけがあった白黒映画の時代だった。どこで上映されたのかは忘れてしまったが、大林宣彦の16ミリの作品を観たのも同じ頃だったと思う。その頃の僕は、ロジェ・バディムルイス・ブニュエルらの映像で果てしない迷宮へと誘なわれていた。大林宣彦の映画もそうだった。その後の彼の、初期の劇場用映画は映画館で観ている。今では”理想や幻想よりも現実を見ろ”という時代だ。しかし見えているというリアルには現実感がない。運転をしている車と同じように、人は見ている景色の方へと動いていく。今の若い人たちが見ている風景はどう変化していくのだろうか。

国のない男


『われわれはわれわれの兵士たちに対してもきわめて非人間的な扱いをした。宗教や人種のせいではなく社会的階層が低いという理由で。貧乏人はどこにでも送りこんでしまえ。どんないやなことでもやらせればいい。それが簡単でいい。オライリーの番組でもそう言っているはずだ。というわけで、わたしには国がない。』
『いまの若い人たちが気の毒で、かける言葉もない。精神的におかしい連中、つまり良心もなく、恥も情けも知らない連中が、政府や企業の金庫にあった金をすべて盗んで、自分たちのものにしている、それがいまの世の中だ。』
国のない男カート・ヴォネガットの言葉だ。(映像は”スローターハウス5”)

真夜中


近頃の休日の夜の締めは日本酒に、リリーフランキー指原莉乃のテレビ番組”真夜中”だ。先日は新宿二丁目のブックカフェを訪れていた。ゲイ文化に関する書物を集めた本棚には、三島由紀夫中井英夫塚本邦雄稲垣足穂といった作家の名前と名もない男たちの裸があった。過剰な”正義”依存症の時代だ。異なる価値観は徹底して排除し、厄介な問題はないものとして無視を決め込む。しかし誰にでも確実に死は訪れるし、家族や国家の形態、あるいは生物としての機能さえもまったく変わってしまう未来もありえるのだ。街は正気ではない”正義”で溢れている。どんな時にもただ、解放区としての真夜中の”闇”は変わらずにあってほしい。

文弥


深川の江戸資料館で”文弥展”を観た時のことだ。江戸の町並みを再現した展示室の長屋は出入自由で、座布団の上に寝転がっていた。そこに文弥の弟子らしい2人組の”新内流し”が現れた。文弥の言うように、「猫の頭を撫でながら、たたみいわしを肴に日本酒を一杯やれればそれでいい」という心持ちになった。”新内的”を書いたのは、平岡正明だ。面白い連中がいる面白い時代を生きた。今の時代に青春を生きていたら、しんどかっただろうなと思う。無限のはずの想像力は萎縮し、不埒も異端もファッションにすぎない。思考停止をしなければ生きづらい時代だ。

酒の肴にドラマ


曜日の感覚もない生活だが、深夜ドラマで週末の気分を味わっている。前クールはテレビ東京の「バイプレーヤーズ」「山田孝之のカンヌ映画祭」「銀と金」と愉しめたが、今期は梶芽衣子をリスペクトの「女囚セブン」しか観ていない。そこで朝ドラの「ひよっこ」と倉本聰の「やすらぎの郷」を録画して観る事にした。朝ドラの女の一代記のような物語は苦手だし、ゴールデンタイムの犯罪心理や男と女の厄介な人間関係を描いた物語なども興味はなく観る気がおきない。しかし「ひよっこ」はオールロケという茨城の風景、ボンネットバスに方言、1960年代の東京を味わえる、酒の肴には最適な郷土資料館ドラマだった。岡田惠和が書く主人公のモノローグの台詞がうまい。「やすらぎの郷」は倉本聰の心情と役者への当て書きのメタ・フィクション、ワンセットワンシーンの会話が延々と続く時間の流れ、その反骨精神が深夜の一杯に沁みる。これが終わりなきドラマ、生ある限り続くメタ・フィクションだったら最高だと思いながら観ている。