恋は愚かというけれど


猫の頭を撫でながら冷酒を飲んでいると、深夜のラジオからジャジーな曲が流れてきた。いい気分です。

真夜中


近頃の休日の夜の締めは日本酒に、リリーフランキー指原莉乃のテレビ番組”真夜中”だ。先日は新宿二丁目のブックカフェを訪れていた。ゲイ文化に関する書物を集めた本棚には、三島由紀夫中井英夫塚本邦雄稲垣足穂といった作家の名前と名もない男たちの裸があった。過剰な”正義”依存症の時代だ。異なる価値観は徹底して排除し、厄介な問題はないものとして無視を決め込む。しかし誰にでも確実に死は訪れるし、家族や国家の形態、あるいは生物としての機能さえもまったく変わってしまう未来もありえるのだ。街は正気ではない”正義”で溢れている。どんな時にもただ、解放区としての真夜中の”闇”は変わらずにあってほしい。

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文弥


深川の江戸資料館で”文弥展”を観た時のことだ。江戸の町並みを再現した展示室の長屋は出入自由で、座布団の上に寝転がっていた。そこに文弥の弟子らしい2人組の”新内流し”が現れた。文弥の言うように、「猫の頭を撫でながら、たたみいわしを肴に日本酒を一杯やれればそれでいい」という心持ちになった。”新内的”を書いたのは、平岡正明だ。面白い連中がいる面白い時代を生きた。今の時代に青春を生きていたら、しんどかっただろうなと思う。無限のはずの想像力は萎縮し、不埒も異端もファッションにすぎない。思考停止をしなければ生きづらい時代だ。

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酒の肴にドラマ


曜日の感覚もない生活だが、深夜ドラマで週末の気分を味わっている。前クールはテレビ東京の「バイプレーヤーズ」「山田孝之のカンヌ映画祭」「銀と金」と愉しめたが、今期は梶芽衣子をリスペクトの「女囚セブン」しか観ていない。そこで朝ドラの「ひよっこ」と倉本聰の「やすらぎの郷」を録画して観る事にした。朝ドラの女の一代記のような物語は苦手だし、ゴールデンタイムの犯罪心理や男と女の厄介な人間関係を描いた物語なども興味はなく観る気がおきない。しかし「ひよっこ」はオールロケという茨城の風景、ボンネットバスに方言、1960年代の東京を味わえる、酒の肴には最適な郷土資料館ドラマだった。岡田惠和が書く主人公のモノローグの台詞がうまい。「やすらぎの郷」は倉本聰の心情と役者への当て書きのメタ・フィクション、ワンセットワンシーンの会話が延々と続く時間の流れ、その反骨精神が深夜の一杯に沁みる。これが終わりなきドラマ、生ある限り続くメタ・フィクションだったら最高だと思いながら観ている。

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猫語


世の中には観察眼の鋭い人は多いが、私は誰かを思い浮かべることがあっても、その人が何をしていたのか、どんな姿だったのかはほとんど思い出せない。人の姿形やその背景への関心が欠落しているのだろう。興味があるのは、その場の居心地が良かったかといった事だけなのだ。日がな一日、猫と居るようになって”猫の時間”にも慣れた。長時間眠り、しばらくの間まったりとくつろぎ、ちょっとケンカをして騒いだらまた寝る。ふと気づくと、いつのまにか私は猫語で話していたのだった。

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風に吹かれて


『アメリカ最大の公共事業は戦争である』

内政がどうにもならない時、”戦争の危機”を煽るのはどこの国も同じだ。恐怖は従属と虚勢をうむ。一旦、精神の奴隷になれば、批判は権力には向かわず、同じ市民を監視し攻撃するようになる。自由という風向きが変わり、”自己責任の不健康”を異様に排除する風が吹き始めたのは90年代の終わり頃だったろうか。それは”お国の役に立たない”ものを排除する戦前戦時と変わらない。そして今歴史は繰り返し、”共謀罪”という風が退路をも絶ってしまうのだろうか。

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抽象


フランシス・ベーコンの絵が深夜のテレビに映し出されていた。彼の絵には人間の本質があり、その眼差しが物語を紡ぎ出す。僕は子供の頃に観たホアン・ミロの絵が好きだった。世界をあんな風に観ていたかった。今、表現とはベーコンのような眼を持つことなのだろう。しかし僕は、何者でもない抽象でありたかったのだ。

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