大道芸


人は解釈を求める。そこに意味と様式美があれば作家性が生まれる。”ギリヤーク尼ヶ崎”が求めるのはそんなものではなく、青春の捨て身のようなものだ。『意味不明・理解不能』の暗黒、投げ銭だけで生き続けてきて、路上に死んでいきたいという男の凄みがある。Eテレのドキュメンタリーで久しぶりにその姿を観たが、年老いてパーキンソン病になり体が動かなくとも、変わらない凄みが伝わってきた。

お盆芸


文明の衝突”といった言葉が使われ、対立軸をつくり、分断をうみだし、単純と過剰を求めるポピュリズムを利用しようとする。世界の果てから生活圏まで重たい空気に満ちているが、善悪の二元論で語れるようなことなどほとんどない。「嫌いだが好き」「不快だが面白い」「苦痛だが愉しい」、微妙な揺らぎの中で生きている。重たい空気が”元禄文化”や”エログロナンセンス”や”アングラ アヴァンギャルド”といった風を吹かせた。それはすぐそこにあるはずなのだ。

巴里祭


巴里祭

店を始めた頃からのお客だったIさんの事はよく覚えている。平日の昼間にフラリと顔をだし、いかにも自由な趣味人という雰囲気を漂わせていた。数駅先の町に住み、ライターをしていると話していた。何年か経った頃に、「これ、今度だした本」と見せてくれたのは、忘れられた女剣劇のスターを取材した分厚い大著だった。表紙の写真もよく、私も割引で買う事にした。Iさんは毎年「巴里祭」という催しをしていて、店の休みと重なった年に一度訪れた事がある。シャンソン歌手や講談師などの舞台を観ながらワインをかたむけるという、何とも妖しく優雅な催しだった。Iさんが、やはりその頃店に来ていたお客の母娘と一緒にいる所を見かけた事があった。その娘は高校で演劇部の部長をしていて、はっきりした物言いでいつも元気がよくキラキラして見えたものだ。それから何年も経ち、「またこの町に戻ってきちゃった」と顔を出した彼女には、もうあの頃のキラキラとした感じは失くなっていた。そしてその日、「Iさん、亡くなったんですよ」と話し始めたのだ。「母とIさんは長く付き合っていて、自由気ままに生きてきたIさんにはお金の事でずいぶんと苦労させられた」という事も初めて知った。子どもを連れた彼女の姿と、苦労してきたという彼女の母の姿が重なって見えた。母がIさんの本を売りに来たのもその頃だったと思う。それからまた長い時が過ぎ、店を移転して数年も経った頃の事だ。長い間顔を見る事もなかった母が店に現れた。彼女は棚に一冊だけ残っていたIさんの本と代金をレジに置くと、「これ、やっぱりいい本だよね」と言った。「いい本だと思いますよ」と、私は店を出て行く彼女の後ろ姿を見送った。店のミニコンポからは、その頃よく聴いていたジェーン・バーキンの「手切れ」が流れていた。



ルーチン


店の営業時間から解放されれば随分と自由になると思ったが、生来の夜型の生活がますますひどくなり、猫化が進んでいる。何かをするには前日や翌日へのしわ寄せが面倒だし、早く起きるのも億劫だ。そういえば、子供の頃からおせちや初詣と普段と様子が変わる正月はよく具合が悪くなった。記念日やサプライズは大嫌いだ。何処へ行こうが何をやろうが、それもまた単なる日常にすぎない。非日常は想像力の中にしかないのだ。休日の散歩は冬の荒天でも変わらずに行く。正月も店の営業をするようになり、時間もないので年賀状はとうの昔にやめた。長年ご無沙汰しているあの人は元気でいるのだろうかとふと思いながら、ポットの熱燗を猪口でチビリとやる。もうすぐ大寒の頃、凍える雪見酒もまた楽しい。

ドロップ・アウト


ウディ・ガスリー/わが心のふるさと

時々、自転車で店の前を通っていたAさんは、家庭ででた不用品を引き取るなどして生計をたてていた。そんなある日、ご機嫌な様子で顔を出すと、自分でリサイクル店を始めると言ったのだ。場所が駅からはとても歩いてはいけない街道沿いときいて、「絶対にやめた方がいい」と僕は止めた。それでも店を始めてしまったAさんだったが、たまに店にくると浮かない顔をしていて、「その内、いい儲け話もある」が口癖になっていった。そして、やがていつのまにか姿を見ることもなくなってしまった。Aさんはそうなった理由は語らなかったが、「一時期、立川でホームレスをしていた事があるんだよ」と何度か話していたことがある。その頃は店の人が弁当を渡してくれ、煙草は帰り道の酔客が箱ごと置いていき、飲み屋のねえさんがウイスキーのボトルなどを持ってきてくれたという。「何の不自由もなかったなあ」と遠い目で言った。寛容な時代だった。その借りは、立ち直った時に他の困った誰かに返せばいいと皆が思っていたのだ。あの頃は家にも町にもいろいろな匂いがあった。今はどこも無味無臭で、無菌化も進み町も人もバーチャルのようだ。”ドロップ・アウト”という言葉が肯定的な意味で使われていた頃もあった。均質化が進み不寛容が溢れ、それはもう袋小路の人生の終わりのような言葉になってしまった。あるのは閉塞感ばかり。

雀荘の息子


麻雀放浪記

ギャンブルはそれで生計をたてたり、一攫千金を夢見れば地獄だが、大きく負けなければいいと思えば他の趣味と比べてもまったく金のかからない遊びで頭の体操にもなる。もっともパチンコとカジノに関しては回収する方法は私には見当もつかない。店を始めてからは一度もやった事はないが、それ以前は毎晩のように麻雀を打っていた時期がある。その頃卓を囲んだいろいろな連中の中に雀荘の息子がいた。彼は「雀荘にはタチの悪い連中もくるので一通りのイカサマも覚えたが、修羅場になるので自分で使う事はない」と言う。そこで「何でもありでやってみようか。イカサマがみつかればチョンボと同じ満貫払いという事でいいよ」と言ってみた。手先が人一倍不器用なこちらにできることは、積み込みができないように混ぜる事と観察しかない。局が進み、自分の手牌には清一色の勝負手が入っていた。彼は上家の親だ。手牌はすべて同一色になっていたが和了はしておらず、捨てる碑に悩んだ。そして次の順にその親からのリーチがかかったのだ。私が「積もれ」と引いた碑を盲牌すると、それは”東”だった。その碑は親が2碑捨てていることは覚えており、瞬時に積もぎった。すると彼から「ロン」という声がかかった。「えっ」と彼の捨て碑を見ると、”東”などどこにもない。おそらくこちらが捨て碑を悩んだわずかな間に、河にある”東”を拾い、一枚を手牌の単騎待ちの碑と入れ替え、もう一枚の”東”は自碑をツモる時に次の私のツモ碑とすり替えたのだ。捨て碑をみれば放銃は防げる事だったが、勝負手だった私がどう反応するのか試してみたくなったのだろう。雀荘の息子はニヤリと笑い、「親のリーチ一発チートイドラドラ」と言った。私は苦笑しながら”1万8千点”を支払うしかなかった。