ルーチン


店の営業時間から解放されれば随分と自由になると思ったが、生来の夜型の生活がますますひどくなり、猫化が進んでいる。何かをするには前日や翌日へのしわ寄せが面倒だし、早く起きるのも億劫だ。そういえば、子供の頃からおせちや初詣と普段と様子が変わる正月はよく具合が悪くなった。記念日やサプライズは大嫌いだ。何処へ行こうが何をやろうが、それもまた単なる日常にすぎない。非日常は想像力の中にしかないのだ。休日の散歩は冬の荒天でも変わらずに行く。正月も店の営業をするようになり、時間もないので年賀状はとうの昔にやめた。長年ご無沙汰しているあの人は元気でいるのだろうかとふと思いながら、ポットの熱燗を猪口でチビリとやる。もうすぐ大寒の頃、凍える雪見酒もまた楽しい。

ドロップ・アウト


ウディ・ガスリー/わが心のふるさと

時々、自転車で店の前を通っていたAさんは、家庭ででた不用品を引き取るなどして生計をたてていた。そんなある日、ご機嫌な様子で顔を出すと、自分でリサイクル店を始めると言ったのだ。場所が駅からはとても歩いてはいけない街道沿いときいて、「絶対にやめた方がいい」と僕は止めた。それでも店を始めてしまったAさんだったが、たまに店にくると浮かない顔をしていて、「その内、いい儲け話もある」が口癖になっていった。そして、やがていつのまにか姿を見ることもなくなってしまった。Aさんはそうなった理由は語らなかったが、「一時期、立川でホームレスをしていた事があるんだよ」と何度か話していたことがある。その頃は店の人が弁当を渡してくれ、煙草は帰り道の酔客が箱ごと置いていき、飲み屋のねえさんがウイスキーのボトルなどを持ってきてくれたという。「何の不自由もなかったなあ」と遠い目で言った。寛容な時代だった。その借りは、立ち直った時に他の困った誰かに返せばいいと皆が思っていたのだ。あの頃は家にも町にもいろいろな匂いがあった。今はどこも無味無臭で、無菌化も進み町も人もバーチャルのようだ。”ドロップ・アウト”という言葉が肯定的な意味で使われていた頃もあった。均質化が進み不寛容が溢れ、それはもう袋小路の人生の終わりのような言葉になってしまった。あるのは閉塞感ばかり。

雀荘の息子


麻雀放浪記

ギャンブルはそれで生計をたてたり、一攫千金を夢見れば地獄だが、大きく負けなければいいと思えば他の趣味と比べてもまったく金のかからない遊びで頭の体操にもなる。もっともパチンコとカジノに関しては回収する方法は私には見当もつかない。店を始めてからは一度もやった事はないが、それ以前は毎晩のように麻雀を打っていた時期がある。その頃卓を囲んだいろいろな連中の中に雀荘の息子がいた。彼は「雀荘にはタチの悪い連中もくるので一通りのイカサマも覚えたが、修羅場になるので自分で使う事はない」と言う。そこで「何でもありでやってみようか。イカサマがみつかればチョンボと同じ満貫払いという事でいいよ」と言ってみた。手先が人一倍不器用なこちらにできることは、積み込みができないように混ぜる事と観察しかない。局が進み、自分の手牌には清一色の勝負手が入っていた。彼は上家の親だ。手牌はすべて同一色になっていたが和了はしておらず、捨てる碑に悩んだ。そして次の順にその親からのリーチがかかったのだ。私が「積もれ」と引いた碑を盲牌すると、それは”東”だった。その碑は親が2碑捨てていることは覚えており、瞬時に積もぎった。すると彼から「ロン」という声がかかった。「えっ」と彼の捨て碑を見ると、”東”などどこにもない。おそらくこちらが捨て碑を悩んだわずかな間に、河にある”東”を拾い、一枚を手牌の単騎待ちの碑と入れ替え、もう一枚の”東”は自碑をツモる時に次の私のツモ碑とすり替えたのだ。捨て碑をみれば放銃は防げる事だったが、勝負手だった私がどう反応するのか試してみたくなったのだろう。雀荘の息子はニヤリと笑い、「親のリーチ一発チートイドラドラ」と言った。私は苦笑しながら”1万8千点”を支払うしかなかった。

どうにかなるさ


店のある町には、なけなしの年金で暮らしているような人も多かった。どちらにせよそれで暮らせるわけではないので、その金で酒を飲み競輪場に行けばすぐに消えてゆくのが常だ。金がなくなるとどこかの家の片付けの手伝いなどをして、そこででた不用品をリサイクルショップなどに持ち込んだりして糊口をしのぐ。そんな人が「どうだい、珍しい品だろう」と古本屋にも顔を出すのだが、使い物になるような品があったためしはほとんどない。それでもいいのだ。商売をしていると仕事の時間が夜にずれる。夕食の時間に洒落た店でワインなどをかたむけている人や、帰り道の盛り場で盛り上がっている人たちを見かけても、日常には何だか厄介で面倒なことがあると思うだけだった。しかし「さて、今日もこれから仕事だ」と通りかかった昼の公園で、その日暮らしの人たちが缶チューハイを飲んで笑っているのをみると、どこか羨ましくなる。非難も排除もされることもなく、そんな光景が当たり前だった頃があったのだ。町は古く混沌としていて、壊れそうな家賃1万程度の安アパートがどこにでもあり、日給数千円の日払いの仕事に数日行けば支払いはできて当面生きていくこともできる。どうにかなる、そんな頃があった。町を壊し経済成長や利便性を求めているうちに、今は人も壊れてしまった。

城山の猫


今住んでいる場所に越してきた頃は、道路が整備され始めた頃で今とは違う景色だった。その後道路が延伸し橋が二つでき、大型店もできた。そして府中に向かう旧道のバス通りにあった蕎麦屋や食堂は姿を消した。近くにある城山のあたりも随分と整備がされた。保存古民家がある後ろのハケ沿いが小ぢんまりとした公園になっているが、その頃は木や草がうっそうとしていて野良猫はみるが散歩をする人の姿もほとんどいなかった。町猫はボランティアの方が避妊などの世話をしていて、城山にも今はもういない。あの頃、たまにその道を歩いているといつも、古民家の後ろにある木製のデッキの手すりの上に巨大な長毛の白猫がいた。他の猫はバラバラと草むらなどにその姿を見かけたが、その猫はいつも同じ場所にいた。頭を撫でても泰然としていて、持っていた酒の肴をだしてみると悠然とした風情で口にする、その姿を見るのが好きだった。そんな日々が続いたある日、その場所を通ると姿は見えず、デッキの奥の草むらに布団がみえた。近づいてみると掛け布団の下に子供のようなものが見えて驚いたが、そこに長毛の猫が寝ていたのだ。布団の周りには7~8匹の猫が座り、その姿をじっとみていた。人にできることは何もない。そして次にその場所を通った時にはもう何もなかった。あれほどいた野良猫の姿も見つけることができない。歩いているとようやく、遠くの草むらにうずくまっている一匹の猫を見ただけだった。

泣ける歌


テレビをつけると”泣ける歌特集”といった番組を観ることがあるが、それらの曲で泣けたことがない。岡林信康貧困差別を歌い、その後社会変革を歌った頃の曲は後楽園で観た黒テントの”翼を燃やす天使たちの舞踏”という演劇の幕間でライブで聴いた記憶がある。その後それらの曲への批判や政治利用に疲れて、心身ともに病んだ頃の岡林信康が作った曲が”君に捧げるラブソング”だったかと思う。初めて聴いた頃は何も思わなかったが、今は酔いつぶれた夜に聴くと泣ける。『そうさ僕は僕、何もできはしない』