最後の一曲


”ミュージック・ポートレイト”の人生の終わりに聴きたい一曲で、”くるり”の岸田繁が「朧月夜」と語っていた。これは同感だ。菜の花と桜の頃がいい。紅葉の頃なら「里の秋」、冬になれば「冬の星座」、どれもカップ酒と最後の煙草の一服によく似合う。しかしその前に、年ごとに長くなる厳しい夏を乗り切ることができるのだろうか。


Night Walk


厳しい夏がようやく終わったと思ったら、厳しい冬が来た。テレビで気象予報士が「今年の秋は3週間でした」と言っていた。気候までもが極端になっていく。寒風の夕暮れ時は佇んでいる事もできない。しかし深夜の帰り道では樹々のざわめきもやみ、穏やかな静けさに包まれる事が多い。夜は優しい。

キワがいい


世界は2極化に向かっている。人は何かを極めたがる存在であるし、極端な言動に鼓舞される存在でもある。今こそそれらの間にあるキワにたち世界の景色を眺めたい。そこにあるのはエロティシズム、オカルティズムや、そして蕩尽だ。逸脱や過剰は道徳から生まれるが、キワにあるものは永遠の官能だ。本当に現実は存在するのか物理学や認知心理学が進化したとしても、妄想は世界を変える。この国の政治には何もないが、文化にはその萌芽があるようにも見える。

 

無用の美


一億総活躍などという言葉が何の羞恥心もなく使われる日が来るとは思わなかった。生産性や有用性では事物は測れず、むしろ無用のものこそ美しい。

ジョルジュ・バタイユ『至高性』
ジョルジュ・バタイユ『至高性』

紫煙はのぼり、ぼんやりとしている


猫を撫でながら、一日を過ごす。散歩に出て小川や池にプカーッと浮かんでいる鴨や、まったく動かない鷺や亀をぼんやりと眺めながらカップ酒をあける。生物の徹底した体力温存を見習う。肉食の動物が獲物を捕獲する時でさえ無理をする事はない。人間の異常な過剰さが文明や文化を生んだ。他の生物からみれば、それは単に迷惑で厄介な存在でしかないのだ。

OKINAWA1972


琉球王国非武装中立琉球処分、日本の愛国教育、沖縄戦、戦後の本土にいた沖縄県民の強制帰還と沖縄の軍事基地化、マッカーサーの「沖縄を返還しなくても日本では反対運動はおきない。沖縄人は日本人ではないからだ」という言葉、その後の祖国復帰運動と沖縄返還時の核密約。沖縄にとっての祖国とは何なのだろう。スコットランド独立運動のようなことがあってもおかしくはないが、世界中の問題がそうであるように、困ったことに沖縄にも石垣や与那国、他の離島との間で同じ問題が存在してしまうのだ。
『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや』(寺山修司)

琉球共和国―汝、花を武器とせよ

 

利己的遺伝子


福岡伸一が「人は長い進化の末、遺伝子の呪縛から解放された生物だ。人は自由であっていい」というようなことを語っていた。生物学の論争には興味もない。ドーキンスの利己的遺伝子を基にした竹内久美子著作も痛快なものだった。人類の歴史は利己的遺伝子の戦略に踊らされていたにすぎない。遺伝子の戦略を知ることで、人はようやく”生きる意味”や”人生の目的”という呪縛から解放されたと思わせてくれたのだ。人は何かになり、何かを排除するのではなく、何者かから自由になれる存在であると信じたい。