春画


昨年の秋は永青文庫で「春画展」が開催された。今年の秋は原美術館篠山紀信の写真展「快楽の館」が開催される。 江戸の春画春本はワ印(笑いのワ)、閉塞的な社会状況を笑い飛ばすためのものだった。同調圧力が強まり、全体主義の風を感じる今こそ、権威や権力を笑い飛ばしたい。『あらゆる性的倒錯の中で、純潔こそがもっとも危険なものである』、バーナード・ショーの言葉だ。オリンピックでは福原愛にもらい泣きをしたりもしたが、彼の『人類から愛国主義者をなくすまでは、平和な世界は来ないであろう』という言葉も思い出した。

 

たそがれ・あやしげ


遠い日に読んでいた眉村卓の、どこか懐かしく奇妙な異世界に迷い込む話が好きだった。人気の場所や評判の店などにはまったく興味がない。情報機器は異界への入り口を閉ざすものとしか思えない。何も持たずに散歩をしていると路地や古道に迷い込み、そこにあった薄暗い酒屋に入ると棚には初めて見る酒が並んでいる。いつのまにか何でもない町の光景が、奇怪な建造物や不思議な人のように思えてくる。そこはもう地図にはない幻の場所なのだ。

サマータイムブルースが聴こえる


夏になると見慣れた街ではなく、海や山で一杯やりたくなる。若い頃は夜に酒瓶を持って飲みながらでかけ、朝が来ると疲れて電車で眠りながら帰ってくるというのがいつものパターンだった。酒とギャンブルの日々だった30の時だ。いつまでもこんな暮らしはできないだろうなと思っていた。「今年はパッと、伊豆七島にナンパ旅にでもいきますか」と若い連中に声をかけると、7,8人での旅になった。行きの船は夜行だ。船室に行くとどこも人の山で、甲板で飲む事にした。東京湾をでると海は荒れていて、ひどく揺れる。船酔いするくらいなら酒で酔おうと飲み続けた。朝、島に着くと眠り、目が覚めると夕方だった。外に出るとウロウロしているのは男ばかりで、海の家のような店で飲んでいる女子を見ると、ナンパ待ちの行列までできていた。宿に戻ると、皆も疲れた顔をして帰って来る。そこでまた飲み会になり、朝までチンチロリンの勝負になった。結局、街にいるのと何ひとつ変わらないのだ。最後の夜になった。ブラブラと時間を潰して宿に戻ると、「今日は女の子がいて、楽しんじゃったよ」と言ってみた。すると一番若い男が「俺は素人とはやった事がないんだ」とバックからコンドームをだした。みると涙ぐんでいる。そして他の連中も、唯一の妻帯者だったバンドマンまでもが「奥さんから持たされた」とバックからだしてきたのだ。えー、そんなにマジだったのか。「ゴメン、冗談だよ」と謝り、「翌朝には船がでるので、海で一杯やって寝ようや」と小さな入江に行った。ウイスキーを飲んでいると、一番若い男が「バカヤロー」とコンドームを投げた。翌日の海は来るときとはうってかわって穏やかだった。船室に入るとどこの島から乗ってきたのか、女子のグループもけっこういた。彼女たちと健全にトランプをしたりバカ話をしているうちに、あっという間に竹芝桟橋に着いた。『手当たり次第に声かけて みんな振られたよ』 いくつになっても、そんなんでいいんじゃない。

晩秋


もう随分と前から夏バテだ。散歩にでるとハアハアと舌を出し、アスファルトと室外機のあまりの熱さにベビーカーに乗せられている犬の気分になる。酒がうまい晩秋と早春が恋しいので、せめて映像でも観てみる。夏眠中です。

世界が恋する日本酒


カンパイ!世界が恋する日本酒

休日くらいは歩きたいと思うのだが、猛暑日の午後はつらい。とりあえず、よく冷えた300ml瓶の日本酒と100円ショップのお猪口を持って、ボックス席のある電車で涼みたいと思ってしまう。南部美人、美味いね。

500マイルも離れて


音楽への憎しみ

ラジオのニュース番組で知ったフジロックでの「音楽に政治を持ち込むな」論争には驚いた。クラシックは権力と密接に結びつき、明治期のこの国に西洋音楽が持ち込まれたのも、西欧列強に対抗する人心を鼓舞するためのものだった。今も、愛や絆や家族や美しい国と歌うほどに政治に利用されてしまう。池田晶子が確か、「倫理とは自由である。そして道徳とは強制である。」と語っていたが、この国の倫理はどこに消えたのか。